ボリス・ヴィアンの『脱走兵』について
フランスの小説家ボリス・ヴィアン(Boris Vian, 1920-59)の作詞したシャンソン『脱走兵 Le déserteur』にピンとくる訳詞がないので自分で翻訳し歌ってみたが、曲が共作なことも含め、考えたら著作権関連がやっかいで公開するすべが今はないことに氣づいた。だからここでは歌詞の解読を通して僕自身の意見をのべてみることにしよう。
このシャンソンの原詞とヴィアン自身が歌った音源を味わい、訳語を細かく検討してみれば、この歌の内容は一般に知られているような単なる反戦歌ではなく、〈老子的パタフィジック〉とでも呼ぶべき多面的なイメージを想起させるものであると知れた。歌詞に採用されている動詞は目的語を付加するといくつもの意味をもつものが多く、ヴィアンが拒否すべきであると述べている対象は戦争に
作者がフランス語の原詩にこめた深い言葉の
Le déserteur
『脱走兵』
Lyrics by Boris Vian
Composed by Harold B. Berg / Boris Vian
作詞 ボリス・ヴィアン
作曲 ハロルド・B・バーグ
&ボリス・ヴィアン
翻訳 根津耕昌
(一)
Monsieur le Président
Je vous fais une lettre
Que vous lirez peut-être
Si vous avez le temps
一筆啓上仕候
大統領、お読み下さい
お暇な時にでも
Je viens de recevoir
Mes papiers militaires
Pour partir à la guerre
Avant mercredi soir
水曜の日暮れ前
との通知受けました
軍からの書類、僕に
戦争に行けとの
Monsieur le Président
Je ne veux pas la faire
Je ne suis pas sur terre
Pour tuer des pauvres gens
貧しい人らを
殺せとの仰せ
僕にはできない
そこには僕がいない
C’est pas pour vous fâcher
Il faut que je vous dise
Ma décision est prise
Je m’en vais déserter
ムッシュー、この由
どうぞ悪しからず
決意は一つ、僕は
逃げて旅立つ
このシャンソン『脱走兵』は、AB二種類のメロディを用いてAABA形式に構成された十六小節の曲で、四行×四連をひとつのまとまり(一節、歌詞の一番)としてそれを三回繰り返す、ごく簡素なスタイルで書かれている。
フランス語による原詞一番第三連の三行目に書かれた「sur terre」は「地球上に」「この世に」「現実に」を意味し、四行目とあわせて直訳すれば「僕はこの世にいない/貧しい(哀れな)人びとを殺すためには」となる。拙訳では三行目の味わいを活かすために、命令に従い惰性的に殺人を行うことは
第四連最終行の動詞「déserter」をここでは「逃げて旅立つ」と訳したが、自動詞としては「脱走する」「逃亡する」、他動詞としては「離れる」「棄てる」「見捨てる」「放棄する」などの意がある。歌の歌詞にはピリオドがなく、目的語が省略されていると
動詞「déserter」の語源は「人が去る」を意味するラテン語「desertus」であり、人が去った不毛の地である「砂漠 desert」の光景を比喩として読みとることで、出エジプト記におけるモーゼの姿を連想することもできるだろう。この歌にはさらに「虜囚」「血」「使徒」など聖書を連想させる言葉がいくつかあるが、作者が聖書をどのように
慣用句の軽妙な組み換えによる言葉あそびを用いた作風で知られるヴィアンは、言語のもつ詩的な可能性を追及した「パタフィジック」('Pataphysique)の作家であり、
(二)
Depuis que je suis né
J’ai vu mourir mon père
J’ai vu partir mes frères
Et pleurer mes enfants
僕が生まれた
父が死ぬのを見た
兄たちが発 って逝 った
僕は泣く子らを見た
Ma mère a tant souffert
Qu’elle est dedans sa tombe
Et se moque des bombes
Et se moque des vers
母はあまりの
苦しみに墓の
中でも嘲笑う
爆弾や蛆を
三行目の動詞「partir」は「出発する」「立ち去る」「開始する」を意味し、同時に「弾丸の発射」を連想させる言葉でもあるため、兄たちが出征し、戦闘を開始し、弾丸が発射され、この世を去った光景がただ一語のうちに重なりあって、如実に凝縮される。このようにヴィアンは、言葉の多義性を巧みに用いて詩的なヴィジョンとでも呼ぶべきものを読者の脳裡に浮かび上がらせようとするのだ。
最終行の名詞「ver」をここでは「蛆」と訳したが、より詳しい訳語は「ウジ、ミミズ、回虫などのいも虫」であり、文脈から言って戦争で利益を得ている人びとへの悪罵を意味し、寄生性の蛆をさすものと思える。ハエの幼虫であるウジには人も含む生きた動物の体に寄生して
Quand j’étais prisonnier
On m’a volé ma femme
On m’a volé mon âme
Et tout mon cher passé
僕は捕われ
妻を奪われた
心を奪われた
かけがえのない日々!
Demain de bon matin
Je fermerai ma porte
Au nez des années mortes
J’irai sur les chemins
あした、夜明けに
ドアを閉じて僕は
死んだ日々に別れ告げて
道へ旅立つ
(三)
Je mendierai ma vie
Sur les routes de France
De Bretagne en Provence
Et je dirai aux gens
僕は僕である
ことを乞うために
ブルターニュとプロヴァンス
結ぶ道に道を問う
Refusez d’obéir
Refusez de la faire
N’allez pas à la guerre
Refusez de partir
命令を拒み
命令するも拒め
戦争には征 かないで
行くも去るも拒否せよ
三番第二連の四行にある「Refusez」および「N'allez」は丁寧語ともとれるが、話しかけている相手が複数の「人々 gens」であるため、命令形と読むこともできるだろう。また、このgensは「周囲の人々」「みんな」あるいは「人間」を意味する名詞だが、文脈によっては「自分自身」を差し示すこともあるようで、この場面を孤独な物乞いの独り言として読むこともできるかも知れない。
四行中二行目の「Refusez de la faire」は直訳すると「それをすることを拒否せよ」で、「それ」が何を指し示しているかが不確かなため「戦争を拒め」等と訳されていることが多いが、前行の「服従を拒否せよ」から推して「Refusez de faire obéir (de quelqu’un)」つまり「(誰かを)服従させることを拒否せよ」の意に解した。ここでヴィアンは「命令を拒み、命令するも拒め」と自ら
三番第一連の四行を文字通りに訳せば「僕は僕の人生を懇願する/フランスの街道を/ブルターニュからプロヴァンスへと/そして人々に言う」となるが、これを孤独な物乞いの言葉として
ヴィアンがアメリカのビート・ジェネレーションをどの程度知っていたのか、海の彼方の流行にどのような思いを抱いていたかは全く知らない。けれども、僕にはどうもこの歌に東洋思想の影響が感じられてならない。とは言え、ビートニクを代表する作家ジャック・ケルアックの『路上 On the road』はまだ正式に出版されておらず、ヴィアンの感性はそれとは似ても似つかないものであるから、老子に象徴される東洋思想や、ギリシャ哲学、それに付随した幻想であるオリエンタリズム/逆オリエンタリズムへの諷刺的パロディとして把えるのが妥当なところだろう。
第二連最終行文末の「partir」は前に述べた通り「出発する」「立ち去る」「開始する」などを意味する動詞で、「戦争に行くこと」と訳されることが多いが、既に直前の行で「戦争に行くな」と要請していることから推して考えれば、「(戦争などで)この世を去ることを拒否せよ」との意が秘められていると解するべきなのではないかと思う。さらに言えば、ヴィアンが拒否すべきであると告げている行為は戦争によって命を落とすことだけではない。
ソクラテスはデルフォイの神託に従い、正しい主張を述べ続けたことによってアテナイ市民の反感を買った結果、死罪の判決をうけて毒杯を
S’il faut donner son sang
Allez donner le vôtre
Vous êtes bon apôtre
Monsieur le Président
献血の御用は
ご自分の血をどうぞ
あなたは良い使徒だ
ムッシュー大統領
Si vous me poursuivez
Prévenez vos gendarmes
Que je n’aurai pas d’armes
Et qu’ils pourront tirer
僕を追うなら
どうぞ兵に警告を
僕は武器をもたず彼は
撃つことができると
得ることができると
知ることができると
最終連の四行目は文字通りなら「そして彼らは撃つことができる」であり、一般的には暴力に対する無抵抗主義の表明と受けとられている。けれども僕にはパタフィジックの作家であるヴィアンがそれほど単純な歌詞を、歌手に要望されたとは言え何の「仕掛け」もなく発表するとは考えにくい。むしろ、表面上は英雄的な無抵抗主義を装いながら、それそのものが孕む矛盾を暗に批判しているように思える。
ヴィアンが、彼の代表的な作品として知られる小説『日々の泡』の中に書き記した「僕が興味を抱いているのは、人びとみんなの幸せじゃなくて、各々ひとりひとりの幸せなんだ」(Vian, Boris. "L'Écume des jours." 1947. «Ce qui m'intéresse, ce n'est pas le bonheur de tous les hommes, c'est celui de chacun».)という言葉が、こうした「反
動詞「tirer」の自動詞としての意味は、主に「銃を撃つ」で間違いない。当初ヴィアンは最後の二行を「僕は武器を持っており/撃つことができる」と書き、歌手のムルージの意見を汲んで現在の形に書き改めたのだと言う。確かに当初のヴァージョンの方が、三番第三連一・二行目の「血が入り用なら/あなたの血を与えなさい」という歌詞の文字通りの訳で、すんなりと文意を読むことができる。
改作にあたって、ヴィアンは無抵抗主義的に聞こえる歌詞をそのままに、細部の語意や文法表現に微調整を施すことで、単なる反戦を超えたメッセージを、この歌に籠めようとしたのではないだろうか。小説『日々の泡』や別のシャンソン『進歩の哀歌 Complainte du progrès』等に籠められた主なテーマは、社会の機械化にともなう自分自身であることの喪失であり、言語の詩的な可能性による「意識の自動運動への抵抗」が、この歌に秘められたヴィアンのほんとうの声だ。
tirerのもつ他動詞としての意味には「(何かを)引く」「(誰かを)撃つ」「(利益などを)得る、導き出す」「(場所を)離れる」「(誰かを)救う、助ける」「(誰かを)自由にする」「(結論を)引き出す」などがあり、この歌詞の文意や構造から言って、「僕」や別の語を目的語とした他動詞であるとの読みも、不可能ではないように思える。
だからこそ、この歌の主語であるところの元兵士は大統領に「あなたは良い伝道師(使徒、熱心な宣伝者)だ」と言うし、兵士たちが言葉の裏の裏まで考えぬいて自分自身であることの決意をもてば、「撃つ」以外の選択肢は自ずと脳裏に想起されるはずだ、という謎かけをこの手紙に託しているのだ、と僕は読む。僕の心にヴィアンの歌はそのように響く。
考えろ。あらゆる惰性的な自動運動を拒否せよ。僕たちは単なる道具としての機械になってはいけないし、意志を欠いた完全な自動人形になることはできない。もしかりそめにでもそうなってしまった時には、生きているように見えても、そこには君がいない。僕は僕自身であり、君は君自身であるためにしか、この地上に存在することはできないのだ、と。