Homo rehabilis【9】夏の手紙:大地と交わり、生命を祝う
この文章は二〇一八年の「僕」が「あなた」に宛てた書きかけの手紙で、この「あなた」には今、この前置きを書いている「僕」自身も含まれている。これはまったく思いもよらなかったことだ。そのため、この当時の「僕」と今の「僕」では、事物への認識の立場と、行為に関する判断の是非がいくぶん異なる。だから「僕」はこの手紙を、すでに役目を終えた過去の〈遺物/異物〉として取り除いてしまうことも、まったく別の内容に書き直してしまうこともできる、ように思える。けれども今の「僕」には、そうすることで何かの誤りが生じるように感じられてならない。未来の「僕」が今の「僕」に、この手紙を捨ててはいけないと囁く。今の「僕」が過去の「僕」を、そうして導いてきたのと同じように。だから「僕たち」はこの文章にできるかぎり手を加えず、心を寄せて書いたあの当時のままに、その時の「僕」が感じ、考えていた姿をここにそのまま遺しておきたいと思う。
夏の手紙
標高七二〇メートル前後の山奥にある孤立した一軒家で、土地の霊にうながされるまま毎日、時間帯は不規則ながらも神棚に
何か「
いまはどうにか雨もおさまって、ひとまずの休息、といった雰囲氣の静かな時間。今年は埋め立てられた庭をほじくりかえしてほそぼそながらも農作業を始めているから、台風で一番氣がかりだったのは初めて種を播いた食用ヒマワリのことだった。
北米原産の植物で氣候風土も最適とは言えず、埋め立てられて固くなってしまった地面の石を掘り起こしてはどけ、その上にどうにか畝を立てた、痩せた作土に
僕のちいさな農園は、ちいさな農地のわりに集まってくる種の種類が多く、今のところ自給自足の畑というより、とにかく在来種・固定種の種継ぎをする場所、という段階にあって、農薬も肥料も用いず植物を栽培するには怠け者過ぎるいまの自分を目の当たりにしながら、日々どうにか、手元にある種を播き続けている。大分県に棲んでいたときから種継ぎしてきた在来の大豆、この土地に伝わる在来の大豆一種、小豆三種、
知人から譲り受けたタイのもち米と黒米は、田んぼも埋め立てられているから畑苗代で苗を育てて陸稲栽培。それから、ちいさな区画に水路を切って半陸稲栽培も始めてみた。食用ヒマワリ、モロッコインゲン、沖縄のゴーヤ、味が良いので種を採っておいた固定種のカボチャ、ズッキーニ、韓国唐辛子、集落の方にわけてもらった京芋、ジャガイモ何種か、そしてハーブや
テツカ・イカチ
今年の夏至は、迷いの多かった春から心に決めていた〈スウェット・ロッジ〉に一年半ぶりに辿り着いて、その祈りの場に加えて頂くことができた。
アメリカ大陸先住民に伝わる伝統的な儀式〈スウェット・ロッジ〉は、母なる大地の子宮としてしつらえたドーム型の小屋で行われる浄めと祈りの時間であり、この地球に生きる子どもの一員として大地に感謝を捧げ、いのちの再生を願うものだと言われている。
日本国内でも、アメリカ・インディアン(ネイティブ・アメリカン、アメリカ大陸の先住民)たちからその教えの智慧を伝えられた先達たちが、各地で定期的に祈りの場を設けているのだそうで、いまだ国内から一歩も出たことのない僕が参加させてもらったのも、そんなありがたい場所のひとつだ。
梅雨のさなかの長雨の日々、当日の朝までは雨だったものの、ロッジを建てるため人々が集った頃にはやはり、空はすっきりと快晴。とどこおりなく祈りの儀式を終えて、持ち寄った食事で過ごす
『テツカ・イカチ(TECHQUA IKACHI)』と題されたその本は、北米インディアンのホピ族、そのなかでも特に伝統的な暮らしを守ってきたホテヴィラという村の伝統派長老たちが、一九七五年から九一年にわたって発信しつづけたニュースレターを翻訳し、纏めたものだ。
原子力爆弾の投下を予知していた『ホピの予言』で知られる、ホピ族の長老たち。多くの迫害を受けながらも、白人文明の押しつけを拒否して伝統的な暮らしを生き抜いてきたホテヴィラ村の歴史や、当時の状況、〈大いなる精霊〉マーサウの教えに従って暮らす日々のあり方などが綴られた貴重な一冊。その本の一番大切なメッセージは、僕が暮らすこの山奥の村の〈霊的な〉ご先祖から受けとった教えと、何も変わらない氣づきだった。
「自然、そして宇宙というものは、ヒトが祈りを捧げることではじめて循環する。」
ホテヴィラ村の長老たちは、自分たちが祈りの中で植物の種を播き、育て、それに必要とされる儀式を真心の中で繰りかえしていく自給自足の暮らしは、それがただ「伝統だから」という理由ではなく、「自然界を調和の中で循環させる」大きな役割を与えられているからなのだ、という話を、素直なことばでシンプルに物語っている。だから彼らの祖先たちは、その役割の中からいくつもの予言を語り、なぜ天災が起こるのか、なぜ人々は争うのか、なぜ原子力爆弾が投下されたのか・・・・・・を良く知っていた。
種を播いた植物たちに歌を唄い、話しかけ、励まし、その芽吹きと生育、稔りまでのかけがえのない時間を共に生きる。植物栽培と、そのために行う祈りの儀式は、『テツカ・イカチ』ということばが表す意味そのままに「大地と交わり、生命を祝う」ことであって、僕たちヒトと神羅万象が交歓して産まれる〈祝祭としてのいのち〉が、宇宙に少なからぬエネルギーをもたらし、その運行を大きく左右している。
私たちひとりひとりの選択は、人類を分母に等分することのできるものではなく、九〇億分の一の力をもつのではない。あくまでどこまでも一つの選択、一つの力として、一つの地球、一つの宇宙に等しく影響を及ぼし続けている。私たちがそれぞれに個別な〈ひとつの存在〉であることは、この地球や宇宙が同様に〈ひとつの存在〉であることと同等の意味や価値を孕んでいる。
僕たちはいま、幾つもの台風がうずまくこの夏のさなかに、様々なかたちでリアルタイムに伝えられてきている自然のメッセージを受け入れ、考え、目の前にあるすべての出来事の意味を〈思い出す〉ための時間を、たしかに与えられているのだ、と思う。
祈りの海
梅雨の終わりに訪れた大きな台風と豪雨、それにともなって起こった洪水。その洪水による被害と、そのころ同時に起こっていた「あの出来事」との関係について、書く(つもり)でいながら、何となく書くことができない、書かないことの意味を見つめながら過ごす
雨が上がり、それから幾日も晴れ間がつづけば、梅雨のあいだに生い茂ったイネ科の草をぽつぽつと引きぬいたり、鎌で刈り採って畑の畦間に敷いたりしながら、庭の地唐黍が花をのばし、食用ヒマワリが蕾をつけ、陸稲栽培中のタイのもち米が病に
たとえば僕がルポライターであるなら、書き手としての自分が介在することで起こる取材対象の変化について、とても真摯で繊細な態度が求められる。あるいは僕がSF作家であるなら、書き手として求められる態度のベクトルはそれとはまた異なり、虚構を虚構たらしめるだけの大胆さと、ある種の内的な強度が必要とされるだろう。いまここで僕が逡巡している迷いは、この二つの仮定の中間、〈フィクション〉と〈ノンフィクション〉のはざまに位置している。
それはつまり、ことさらに誤解を恐れず端的に言ってしまえば、〈霊的〉とされる現象についての内容を記述する際に求められる態度とそのベクトルとは、どのようなものである(べき)なのだろうか、という迷いであって、そんなことにクラクラ思いを巡らせていた僕がふと手にしたのは、高校以来の友人から借りたまま本棚に仕舞われてあった、グレッグ・イーガンのSF小説集『祈りの海』だった。
表題作『祈りの海』の舞台は、地球から遠く隔たった惑星コヴナント。その惑星に暮らす人型の生命体には、自分たちは「地球からやってきた天使たちの子孫」だという宗教的な伝承がある。主人公の少年には父と母、そして兄がひとりいて、兄はある原理主義的な
少年はある夜、兄の宗派が重んじる〈儀式〉をおこなうことを、半ば強制的に兄から提案される。その〈儀式〉とは、手足を縛って重りをつけた状態で一定時間海に身を沈める、というものだ。聖なる書物に記されたその行為によってのみ〈愛の祝福〉を受けることができる、という兄の善意に抗いきれず、少年は夜の海に身を投じ、窒息寸前のさなかで神の代理人〈ベアトリス〉の実在と愛に目覚め、信念を授けられた。
それ以後の主人公は、啓示のように与えられた多幸感、全能感と、神への信念を胸に成長していく。のだけれど、周囲の出来事は彼の信念と必ずしも一致していない。ように感じられもするが、その戸惑いの彼方に〈ベアトリス〉による導きがあるのだ、と彼は考え続ける。
青年になった彼は、天使たち(地球からの移民)がもたらしたテクノロジーによって変化を受けた環境と、それ以前の状態について研究するために大学に入る。そこで彼は、彼自身の信仰心を裏づけする事実を発見しようという志を抱いていたのだが、結果として導かれたのは、それとは真逆のある化学現象だった。
彼の研究が間接的に導き出した〈事実〉は、地球からの移民が与えた環境変化によって、海に棲むある微生物が特殊な化学物質を排泄するようになった、ということ。そしてその物質はヒトの脳に麻薬的に作用し、〈ベアトリスの愛〉と呼びうるだろう多幸感と向精神作用をもたらす、という現象だった・・・・・・。
この小説は、自らの見出した〈事実〉に打ちのめされるかたちで「神を信じる」ことを喪った主人公の姿が描かれた光景で終わる。けれども、僕がいまここで問いたいと思うのは、物語はほんとうに終わったのだろうか? ということだ。
「終わりにすると、終わらなくなる。」
これは僕が〈カルマ〉(あるいは「固定された関係」としての〈物語〉)がもつ基本的な法則として仮定している概念道具の一つであり、出来事のうごきを把えるためのささやかな定規、もしくは水平器のようなものだ。〈カルマ〉とは、現在進行形のものごとを過去の出来事として処理しようとする(終りにする)力と、それに反発する(終わらせない)力、その双方によって引き起こされ続けていく〈時空の歪み〉を意味する、と考えてみることができる。
この定規をあてて『祈りの海』を読み解いてみれば、この物語が「終わった」のではなく、「終わりにされた」ものであることに氣がつくだろう。主人公の少年は、自らの行為が導き出した〈事実〉によって「神を信じる必要はない」という確信を得たわけではなかった。むしろ、「神を信じる」べきなのか(べきであったのか)どうか、まったく判らない状態になってしまったように、描かれている。
つまり彼は「〈ベアトリスの愛〉とは、ある特殊な化学物質によってもたらされた脳への向精神作用に過ぎない」という〈事実〉そのものの麻薬的な働きによって、〈儀式〉を受ける以前に似た、「確信をもてない」ことへの中毒を起こしているのだ、と言える。作者グレッグ・イーガンが、「まだ終わっていない」作品に終止符を打ったことによって、この物語は中毒的な〈負のループ〉を画き、「終わったようで終わらない」話になってしまった。ここまで辿り着いて、僕がいまやっと語りはじめたいと思うのは「あの出来事」のことだ。
終わらない物語
一九九五(平成七)年に東京でおこった「地下鉄サリン事件」などの首謀者とされる、オウム真理教の教祖と教団幹部あわせて七名の死刑囚が、今月(二〇一八年七月)六日に刑の執行を受けた、と、ニュースはその出来事を伝えている(同二六日に、予定されていた全十三名の残り六名も刑の執行を終えた、と報道された)。けれどもむしろ、僕がそれを知ることになった順序、すじみちをつぶさにふりかえってみるなら、「この国もついに公開処刑をするようになった」という旨の書き込みを、ふと開いたインターネットの情報の海で眼にしたことが、出来事の発端だった、と言うことができる。
その書き込みの先に溢れていた違和感の声(「これから刑が執行される」と前もって報じられたことへの、「今までそんなことは無かった」「なぜそんな必要があるのか」等という、多くの呟き)を掻きわけるように、僕は、僕が確認した時点ですでに執行されていた刑の概要を告げるニュース記事を読むことになる。この、ある人物たちが公的に生命を絶たれたという〈
この〈訃報〉がネットの海に高く波風を起こしていたその日、数日前から僕の体調は異様なまでに重く、後日西日本に大きな被害を
「終わっていないことを、終わりにしたので、終わらなくなる。」
東京近郊に生まれ育った僕が、多感な十代のなかばを迎えた頃に起こった「地下鉄サリン事件」と、それを実行したと言われる新興宗教についての印象は、ふいに墨汁を
前節で小説『祈りの海』とともに提示した〈カルマ〉の基本法則「終わりにすると、終わらなくなる」をこの出来事に仮に適用してみるなら、出来事は〈固定された物語〉として意識されることを通してどこまでもループしはじめる〈可能体〉を示し、その時間的な膨張は容易には「終わらなくなる」ように視える。刑が執行された時点での僕は、ただ現在起こっていることの意味(刑の執行と大型台風の関係。〈霊的〉に言えば、「教祖の存在が孕んでいた在る根源的な力に、別のかたちを与えた」のだということ)と、それによって起こりうる可能性(例えば、台風が多い、天災が続く、など)を告げてこの話を終わる(つもり)でいたのだけれど、当然のことながらそれでは〈固定された物語〉が描く〈新興宗教の教祖〉と何も変わらない行いになるし、〈負のループ〉が生じて「終わらなくなる」のがどうにも眼に見えているのだ。
だから僕はいまも、この話とこの出来事の「終わり」をどうにか見届けるために、誰に言われるでもなく毎日神棚に祝詞を上げ、経文を読み、マントラを唱える日課をともあれ繰り返しつつ、日々移ろう天候の変化と、畑に植えた植物たちの生育、鳥の鳴き声や虫の知らせ、山に暮らすすべての存在たちの営みが〈開示〉するメッセージに耳を澄まして、できるだけ淡々とこの文章を書き続けようとしている。このリアルタイムな手紙を書くことと、なぜかあなたがこの一文をここまで読んでくれたことを通して、僕とあなた(そして、わたしたち)の中の、忘れ去られた夏休みの宿題を想わせる「終わらない何か」が確かに見出されて、それを解き放つ願いが芽をのばし、そっと育ちはじめるだろう予感を、いま、ここで秘かに覚えながら。
ひとつの川
僕やあなた、わたしたち一人ひとりがあらわにしているそれぞれに固有な存在の姿は、独特のしぐさで水を湛えた一本の川に
たとえば僕が根津
オウム真理教の教祖、あるいは二つの名をもつ人物として認識されているヒトについて考えてみようとするとき、彼もまた一つの川である、との観点から、その存在の姿をより微細な眼差しを通して見つめなおす必要がある、と僕は感じる。「ナイル川は氾濫する」という言葉が、ナイル川という存在への事実誤認、あるいは明確な嘘であると同時に(ナイル川はある時氾濫した、ナイル川は時に氾濫することもある、と言うことしかできない)、「彼は悪人である」という言葉も事実誤認、あるいは明確な嘘である。
終わりにすると終わらなくなる、という〈負のループ〉は、主にこの事実誤認、あるいは嘘から生じているものだ、と言えるのだろう。オウム真理教、その教祖と教団幹部が「地下鉄サリン事件」と呼ばれる出来事の犯人であったのかどうか、正直なところ現段階の僕には保留せざるを得ない。かつてこの世紀の初めに米国で起こった世界貿易センタービル爆破事件が、イスラム教過激派組織によるものであったのか、米国政府の自作自演であったのか答えがはっきりと見いだせないのと同様に、地下鉄サリン事件が日本政府による自作自演であった可能性もまた、まったく拭い去ってしまうことのできないものであることは、東京電力福島第一原子力発電所爆発以後の、さまざまな事実を隠蔽していくために政府がとった(今もとっている)行為の一つひとつが、つぶさにそれを保証している、とも言いうる。けれどもそれはこの文章の主題ではなく、これもまた意識の固定化を孕む〈物語〉のひとつに過ぎない。
もしここでオウム真理教という教団がテロリズムに属する行為をおこなったのだ、と仮定して話を進めるとしても、「彼らは悪人だ」というのは事実誤認、嘘である。存在とはひとつの川であり(ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず)という善悪の彼岸にあるものであれば、悪人とはひとつの幻想、〈物語〉に過ぎない。「彼らは悪い行いをした」と「彼らは悪人だ」とのあいだにある大きなズレ。そのズレが、終わりにすると終わらなくなる、という〈負のループ〉を呼び起こしているのだ、と言えるだろう。けれども僕がそう感じ、ことばにあらわしているこの物事のうごきも、あるいはまた、ひとつの〈物語〉に過ぎないのだろうか。
けれどもいま、この疑問への
僕という川は、魂の地図を頼りに旅するあなたにとってはある川の支流であり、源流であり、絶え間なく海へと流れつづけて止まぬ変化する水の、ふと目の前にあらわになったつかのまの景色である。その風景のなかでは時に名も知らぬ鳥が聴き慣れない鳴き声をあげて飛び立っていくこともあるし、大雨で生じた濁流に呑み込まれていく蟻たちのすがたを眼にするかもしれない。
変化する天氣と風景をあなたの眼に映しだす鏡のようなものでもある僕という川は、いまどこか、きみょうな濁りをこのからだに覚えている。それはこの数年来、あの原発事故からいままで無かったことで、川である僕はこの濁りを
僕(という川)が自問するものごとのうごきは、その川面に微妙な波紋を呼び、それによって起こる天氣と風景の変化はあなたの心象風景へとメッセージを投げる。けれどもそのメッセージは、僕がいま書きあらわしている文章そのものではない。僕が僕であると同時に、僕は僕という川であり、海であり、自然そのものである。僕という川を越えて、魂の地図を頼りに旅するあなたが自然そのものへと眼を向ければ、そのときあなたもまたあなたという川であり、そこにはいま、ここで起こりつづけている神秘がたしかに示されてある。
そこには何ひとつ〈負のループ〉はなく、ズレも存在しない、ように僕には思える。ではこのズレはいったい、「どこ」にあると言うのだろう。それをどうにか探るために、存在と行為のはざまに垣間見えるきみょうな時空のノイズへと身を