裸の認知

「まちがった範疇と自分が信じているものを論争の主題として受けいれることは、いかなる場合にせよ、一つの危険に身をさらすことだ。つまり、注意を払うことによって、その現実性についてなんらかの幻想を維持するという危険である。明確でない障碍をもっとよく捉えようとして、堅実さが欠けていることを指摘しようとしただけの輪郭をかえって強調することになってしまう。というのは、論拠の薄弱な理論を相手にすることによって、批判はまずこの理論にいわば敬意を表することになるからだ。決定的に祓いのけようという希望の下に不用意に喚起した亡霊は、消え去ったとしてもふたたび、しかも、最初に出現した場所から思っていたより近いところに現れることになる」(『今日のトーテミスム』クロード・レヴィ=ストロース/仲澤紀雄訳)

 トーテミズムという概念の幻想性を批判した書物のなかに、人類学者クロード・レヴィ=ストロース教授が書き記したこの一文が差し示すように、批判は必要なものなのだが、とてもむづかしい。
 本来存在しないはずのものが、そこにあるかのように見えてしまい、その誤った認識がそのまま人びとに共有されると、議論の論理が「無いはずのもの」に引っ張られて堂々巡りに陥り、進まなくなってしまう。
 そもそも無いはずのものが、あるかのように見えてしまうのは一体なぜなのだろう。この現象のしくみは、デジタル信号処理を例にとってみると理解可能だ。
 スウェーデン出身の物理学者ハリー・ナイキストは、アナログ現象をデジタル信号に変換する際、元信号に含まれる周波数成分の2倍よりも高い周波数で標本化(サンプリング)すれば、元信号を再現できることを示した。これを『標本化定理』といい、サンプリング周波数の1/2の数を「ナイキスト周波数」と呼ぶ。
 サンプリング前の元信号に、ナイキスト周波数よりも高い周波数成分が含まれていた場合、ナイキスト周波数を対称軸として「元信号には存在しない鏡像」が発生する。これを「折り返しノイズ」と呼ぶ。
 信号処理の際の「折り返し」によって生じるノイズや歪みは、波形が二重に重なりあうことで本来そこにあるはずの現象を見えなくさせたり、本来そこにないものを像や音として感じさせる。デジタルカメラで撮影した写真において一定の条件が揃った際に発生する「モアレ」や、高い空間周波数において誤差が生じる「高周波偽色」、動画に撮影された自動車のタイヤや扇風機の羽が逆回転してみえる現象などが、そうしたノイズの顕著な例として知られている。
 僕たちの脳裏においてもまさに同様のことが起こっており、本来無いはずのものは、このようにして「ある」ように映る。そう仮定して考えてみることが可能だろう。
 信号処理におけるナイキストの『標本化定理』を、ヒトにおける世界認識のありさまに仮に当てはめてみると、目の前で実際に起こっている現象に対して、それを観測している者の認識の幅がその現象に含まれるだろう情報がもつ帯域幅の2倍以上であれば、目の前で起こっている現象をそのままの姿で認識することができる、という仕組みになる。
 観測者の認識の幅が現象に含まれるだろう情報がもつ帯域幅の2倍よりも狭かった場合、観測者の脳裏には「折り返しノイズ」が発生し、本来あるべき世界認識の姿を歪ませることとなり、そこにエイリアス(偽信号)としての「嘘」が生じる。
 この「嘘」は、わかっていて敢えて吐く嘘ではなく、あたかも真実であると事実誤認したままに吐く「嘘」であるため、口にした当人にも、それを耳にした人にも、何が嘘(存在しないもの)で何がまこと(実際に起こっている現象)なのかの区別がつきにくい性質がある。こうした嘘を、進化人類学者で詩人のローレン・アイズリー博士は自伝的エッセイ『夜の国』に収録された小品『闇の導具たち』のなかで〈半真実〉と呼んだ。
 このようにして僕たちの脳裏にたち現れてくる〈半真実〉、本来無いものを、あるかのように見せている偽信号は、シェイクスピアが戯曲『マクベス』に描いてみせた魔女たちのように、僕たちヒトを言葉巧みに操り「闇の導具」に仕立て上げてしまう。
 
「この化け物は、人それ自身の魂の投影された影であり、心のなかのとりとめもない思考が狼煙のように氣化しては立ちのぼる、潜在意識が意図するものの告示、つまりデルフォイの神託によって支持されるところの――人が自覚をもって受け入れるところの〈半真実〉であり、この託宣は私たちの上に、覆いかぶさるような力を及ぼす。こうした神託の呪文にかけられてしまった人は、真の未来や必然性を生みだすのではなく、自分自身の内面から汲みあげられたまことしやかな模造品を、純粋な人間の力を通して、現実の上に圧しつけ、二重焼きにしてしまう。だからこそなるほど、この幽霊たちの創りだす世界は偽物であると同時に本物であり、その複雑さこそが人間の運命である、と誰かが口にすることすら、可能になってしまうのである。」(Eiseley, Loren. "Instruments of Darkness." The Night Country. 拙訳)

 目の前で起こっている現象に対して、観測者の認識の幅が十分に確保されていないことから生じる「折り返しノイズ」と、そのノイズが実際の事象に折り重なって発生する〈半真実〉としての偽信号は、まことしやかな「二重焼きされた現実」としてなかば自発的に承認され、僕たちヒトの社会通念を広く覆っている。では、そうしたノイズを発生させないために必要な「認識の幅」とは、具体的にはどんな状態をいうのだろうか。
 目の前にある自然現象を、できる限りそのままの姿で認識するためには、その現象に含まれるだろう情報がもつ帯域幅の2倍以上の認識の幅が必要であり、「自分は人間である」という限定された認識の下に自然を眺めるだけでは、確実に折り返しノイズを生む。「人間(ニンゲン、ジンカン)」とはヒトが社会生活を簡便に営むために設けたごく限定的な、いわば不可逆圧縮された認識状態であって、自然を自然として観測することには適していない。
 ヒトがヒトを自然として観測してきた結果わかってきたことは、人体を生命として機能させている細胞の約九〇%は微生物やウイルスのものであり、遺伝情報の比率でいえば約九九%が細菌由来のもので、「自分」を成立させている要素の圧倒的多数が微生物であるという事実だ。自然を自然として、世界を世界として的確に観測するためには、まずはこのような認識を体感的に把握する必要がある。
  クロード・レヴィ=ストロース教授が「民族誌的還元から導き出される一般的人間性の観念は、むかし考えられていた一般的人間性の観念とは、もはや何の関係もないものとなろう。生命を不活動物質の作用として理解できるようになった暁には、不活動物質が、それまで考えられていた属性とは非常に異なる属性をもつものであることが明らかとなるであろう」(『野生の思考』/大橋保夫訳)といみじくも書き記した通り、分子生物学的還元から導き出されつつある一般的人間性の観念は、現行の社会に流布している一般的人間性の観念とは、非常に異なる属性をもつものであることが明らかになりはじめてきた。
 ヒトがヒト自身の社会構造や行動の動機を認識しようとする時、自分自身を構成している要素の圧倒的多数が微生物やウイルスであるという事実を充分に考慮することなしには、全てが幻に覆い隠され、議論はどこまでも堂々巡りしてしまうだろう。
 
「微生物群集は自然の全体構想を――そして私たちの自分本位な生活を――動かしており、その目に見えない影響下にわれわれの現実があることを、今や受け入れるときなのだ。」(『土と内臓』デイビッド・モントゴメリー+アン・ビグレー著/片岡夏実訳)

 以上に述べた内容を念頭に置いた上で何かを批判してみようとする時、まず問題となるのは、その批判対象が「本当に存在するのか」どうかだ。
 ある具体的な名称をもって社会的に認知され、一定の立場を承認されているような人物であったとしても、実質的な自然現象としては「ほぼ存在しておらず」、単なる仮想空間上に投影された幻像に過ぎないことはままある。そのような「実在しない」架空の人物を批判しようとしても、そうした人物はあくまで社会的な「夢」であり、「実在しない」ため、批判は矛先を失い、場合によっては無関係の人を害する結果ともなりかねない。
 そのため、まず何か(あるいは誰か)を批判しようと試みる前に、その何か(あるいは誰か)が「実在しているのかどうか」を確かめる必要があり、多くの場合その確認作業を行った結果、そのようなもの(あるいは人物)は架空の存在であり、自然界には存在しないことが明らかになるだろう。そして、その確認作業の過程で見えてくるのは、折り返しノイズによって覆い隠されていた本来の事象(あるいは人物)であり、それは事前に認識していた人や事柄とは大きく異なっていることが少なくない。
 これは当然、批判だけでなく称賛や承認の対象に関しても同様に言いうることであって、僕たちは魔女の呪文がひびくどこまでも無限に相対化されてしまう意味の荒野で、ありもしない物事や人物の「夢」をいいねいいねと褒めあう、裸の王様やマクベスの群れの一人になってはいないかどうか、自らの行為を常に広く認識しつづけていく必要があるのだと思う。
   
Fair is foul, and foul is fair:
Hover through the fog and filthy air.

きれいは汚い、汚いはきれい。
霧と濁った空氣のなかを、ぐるぐるさまよい浮かんで行こう。
〔『マクベス』第一幕第一場〕

 あるいは、僕自身のもつこのような認識の狭さや偏りをさらに深くとらえて、裸の王様やマクベスの群れの向こうに存在するだろう人びとの本来のすがたを、濁った霧のように垂れこめる折り返しノイズの幻影を越えて、どうにかたしかに垣間見てみたいと、そのすべを考えつづけている。

人気の投稿