Homo rehabilis【序】魂の鳥


 死者の魂は青々とした森の奥處おくかに還る。
 いのちの充ちた魂は、朽ちた躰から醸し出されて地に沁み、樹々に宿り、天に愛されて花咲き、とりどりの小さな種となっていくたびも世に降る。幾億粒いくおくつぶの記憶された過去を未来へと運んでぶのは、魂の鳥だ。森から原野、野山から街、海すらも越えてココからソコへ鳥は魂の種をはこび、いのちのつながりの妙なる軌跡を描く。そして魂の鳥の行方を追って、ヒトは旅をつづけて来た。
 ヒトの魂は、どうして森に還っていくのだろう。
 今を生き、こうしてことばを交わしている僕たち、ヒト科ヒト属ホモ・サピエンス(Homo sapiens)に分類される猿型哺乳類の祖先が、同じく哺乳類である類人猿たち、チンパンジーやボノボの祖先と種を別にしたのは、いまから六〇〇万年程前のことと言われる。分化の理由には諸説あってたしかなことは明らかでない、けれども、アフリカ大陸の乾燥化と森林の減少、熱帯草原サバンナの拡大がその背景にあったのではないかと類推されている。
 豊かな森林の樹上生活を追われ、外敵の多い草原地帯にこわごわと歩を進めたときから、僕らの旅がはじまる。森から森へ、安住の地をもとめ旅する永い時のなかで、僕らのからだは異形なものへと変化していく。二足歩行と脳の容量の増加、器用に蠢く手指の構造に変化を加えながら、ヒト科に分類される一哺乳類の僕らはとりどりの種へと分化し、ときに競い争いながら絶滅をくりかえしてヒト科ヒト属の僕らへつづくながい時の旅を経巡る。
 長い旅の安息の地は、いつでも森のなかにあった。
 ヒト科ヒト属ホモ・ハビリス(Homo habilis)、ホモ・エレクトゥス(Homo electus)等絶滅していった兄弟たちを越え、ヒト科ヒト属ホモ・サピエンスの僕たちとなって以後も、ヒトは森を求め、森を追って旅をつづけた。ヒトが本格的に森をはなれ、生活の場を平野へと移すのは大規模な植物栽培を手がけるようになってからであり、森とヒトとの関係に齟齬が生まれはじめたのはそう遠い昔ではない。
 ヒトの安息は何百万年も前から森とともにあって、変化をつづけるその動植物複合体の一部でありつづけたいと願った僕らは死者の魂を森へと送り、いのちの種を集めて旅をつづけた。
 そんな永い時の流れのなかの、ほんの束の間のうちに、いつしか僕たちは森を忘れ、魂の鳥のすがたも忘れてしまった。ヒトの魂は、いまでも森に還っていく。自らの魂が還る森を壊し、魂の鳥を撃ち殺して、旅を忘れた獣が自らの生を喰い荒らしてより異形なものへと変化していくほんの束の間のこの時。
 今を生き、こうしてことばを交わしている僕たち、ヒト科ヒト属ホモ・サピエンスに分類される哺乳類の一種である僕らが、〈旅するからだ〉を思い出し森へと還るための道を、魂の鳥はいつでも明らかに示してやまない。

 

  音を育てる



 一説によれば、栽培植物の起源はヒョウタンに始まるといわれる。
 ヒョウタン(Lagenaria siceraria var. gourda)はアフリカ大陸原産のウリ科植物で、同じくアフリカ発祥とされるヒト科の哺乳類が遥か海をへだてた南米大陸に渡ったのがおよそ一万二千年前のこと。そして、一万年以上前のヒョウタンが南米の遺跡で出土している考古学的事実から類推して、ヒトはヒョウタンを栽培して水筒などの持ち運びに適した容器に加工し、飲み水と種子を携えながら旅をつづけることではじめて海を渡ったのではないか、という仮説だ。
 手間をかけて加工された瓢箪は液体や粒状の物を入れる中空の容器として優れている一方、苦味と毒性をもつステロイド、ククルビタシン(cucurbitacin)含有量の少ないヒョウタンの一種、ユウガオ等の品種を固定することによって、食料としても用いられてきた。永い旅の途上にあるヒトの貴重な食餌としても栽培され、ともに旅をつづけただろう姿が、僕にはすんなりと想像される。そしてまた、もう一つの用途を忘れてはならないだろう。
 アフリカの伝統的な楽器に、コラ(kora)という撥弦はつげん楽器がある。
 巨大な丸い瓢箪を半割りにし、なめした動物の皮を張る。それが本体の共鳴器となり、ボディに挿し込まれた木製の長いネックと、演奏のための二本の握り棒、そして二十一本の弦が張られた風変わりなすがたのこの撥弦楽器は、西欧の竪琴やギターのおやだとも言われる。コラのもつ幻想的な音色を支えているのは、共鳴器として配置された瓢箪の存在が大きい。音をつよく、純粋な手触りのままに鳴り響かせるうつわとして長くヒトに愛されてきた瓢箪は、ギターやウクレレに特有の、くびれたかたちの原型なのだともいう。
 ヒト科ヒト属ホモ・サピエンスに分類される哺乳類である僕らは、容器や食料であったヒョウタンの栽培から、音を育て、音楽を生むすべをおぼえた。ヒトは種を播き、草木を育て、草木は花ひらき実をつけることで音を育てる。終わらない旅の伴奏、心の鼓舞と安らぎの友である音楽は、植物と動物の奇妙な相関関係のなかで生まれ、瞬間瞬間にその姿を変じ時のかなたへと消えゆく。ヒト科ヒト属ホモ・リハビリス(Homo rehabilis)の哺乳類である僕は、母なる森の根源に還る日を夢見ながら、一粒のヒョウタンの種を地に播き、時の彼方にうまれくる未来の音にひっそりと耳をすませている。

 

  旅する獣

 

 僕たちヒトが「旅をする獣」であることは、その歴史と身体的特質が多くを物語っている。長距離を移動しうる二本の足と、海をも越えて旅を続けるための道具をつくり、山野の獣をほふり、火をおこし、木の実を拾い集め旅の糧とすることを可能にした器用な両の手。ヒトはいつでも深く根をはった大樹に憧れ、定住を夢見た。
 かつて古のヒトらが夢見た安らかな定住の暮らしは、今ではあたかも当たり前の事のようにも見えるが、ヒトが「旅する獣」である本質は変わっていない。危機を逃れ、楽土を夢見て旅することを自ら選びとった奇妙な哺乳類の一種である僕らが、かりそめの夢の中それを忘れてしまった時、惨事は起こる。
 退屈な日常、という奇妙な幻想の霧が晴れて、〈旅するからだ〉の感覚がめざめだすと、自分はどうしてここにいるのか、どこに行こうとしていたのか、僕たちは再び問いはじめることになる。はげしい混乱とかなしみのさなかで強く足元の土を蹈む時、湧きあがってくるのはただ「帰りたい」という想い、深い望郷の念だ。旅の終わりは、あるべきところに還りつくことで訪れる。僕たちはいったい、どこに還りつくのだろうか?
 旅する獣である僕らは、どこかにあるのかもしれない約束された楽土、母なる自然の根源に還る日を夢見て、今日も奇妙な旅をつづける。  夢をみる者であるヒトは、どこかに永遠の楽土を求める。けれどもそれは、ほんの束の間の瞬きにのみ、静かにそっともたらされるもので、掴みとることのできるものではない。手にすることのできる永遠や、魔法、手のとどく距離に姿をあらわす楽園は、どれもがすべて幻だ。どのようなかたちであっても、楽園を追い求める道は危うい。ヒトが脳裡に想いえがく楽園の蜃氣楼は、最期のさいごで僕たちの想いを裏切る。だからこそ僕らは、過去と未来の可能性が凝縮された、生命いのちの糸が指し示す遥かなる方位を見つめ、ほんとうの意味での自分自身の姿を、どうにか想い描いてみる必要があるし、事実それはいま、密かに見いだされようとしている。 

 

  ホモ・リハビリス



 大地の底から発掘された、人骨のかたちに酷似した太古の化石の数々、いまを生きる僕たちとはほんの少しずつ何かが違う、進化の過程で絶滅していった兄弟たちのむくろを呼び醒まして、学者は彼らにさまざまな名前を与え、系統立て、分類した。それはつまり、その骨の出自を探ろうとする以上に、自分自身が何者であるかを知ろうとする試みの過程でもあって、その結論のひとつとして学者は、自分たち自身を「ホモ・サピエンス」(Homo sapiens)と呼び、僕たちはそれをひとまず受けいれることで、自分自身が本当は何であるかを、深く考えないで済むようになった。分かっているのは、分からないということだけ。それが哲人ソクラテスの示した、知恵あるヒトの限界でもある。
 ヒト科の絶滅種のひとつで、猿人と原人の中間にあたるといわれる「ホモ・ハビリス Homo habilis」は「器用なヒト」を意味し、中国語では「能人」と書き記される。能人とは何だろう? 器用な、と訳されることもあるラテン語「habilis」は、適した、ふさわしい、という意をもち、英語で可能をあらわす「able」や、能力を意味する「ability」などの、ものごとの可能性を示す一連のことばと類縁関係にあって、漢字の「能」を「くする」と訓読したときの語感が、その語の含むニュアンスを最も適切にあらわすもののように思える。
 手落ちのない、巧みな、十分に心得のあるヒト。
 もはや絶滅してしまった兄弟たちに名づけたその名前のもつ、どこか落ち着いた雰囲氣とくらべて、自らを「知恵あるヒト」(Homo sapiens)、あるいは霊長類と呼んで省みることの少ない僕たちは、何と不器用で、片手落ちの、心得不足な哺乳類であることだろうか。願わくは僕らも、その「きヒト」になりたいものだ。二千五百年ほどもの時をかけて、僕たちの知恵はソクラテスの「無知の知」から、どれだけ先に進むことができたのだろう。ヒトは万物の霊長ではない。多くの生命たちに遅れてやってきた、この星の自然を生きるいちばん幼い子どもだ。万物の霊長と呼びうるだろうものは別にいて、彼らと対話を交わすことができれば、まだまだ学びうることは多い。
 だからこそ僕はまず、自分自身を「ホモ・リハビリス」(Homo rehabilis)と名づける。これは、自然に還りゆくヒトである僕らの、リハビリテーションの記録だ。「Rehabilitation」とは何より、自分自身であることにふさわしい状態に還る道筋であり、からだや心、そこからみちびきだされる具体的な営み、あらゆるものごとにむけての「復帰」を表すことばだ。ある不確かで受動的な状態から、より能動的で、自然な、適切な状態へとかえろうとすることが、リハビリテーションということばの本源だろう。僕たちはそうして、あらゆる場所に還ってゆく。
 大地の底から僕たちが呼び醒ました太古の化石たち、絶滅していった兄弟たちの姿は、今も僕らに何かを話しかけつづけている。ソクラテスを突きうごかしたデルフォイの神託の向こう側に、その呼びかけのもつ確かな意味の響きがある。僕たちはその声にこたえ、自らの知恵を生かし、この大地を生きるにふさわしい存在となることを通して、真に「知恵あるヒト」となり、ホモ・サピエンスであることを超える。そのためにはまず、何よりも、自分自身がいったい何者であるかを、深く問いかけてみる必要があるのだと思う。僕たちは不可思議な夢を見ている。自分は何者でもない、あるいは、何者でもあるという夢だ。夢見ることの叶わない夢から覚めたその時、僕らの旅が初めて本当に始まる。まずは過去へと遡り、夢見ることの叶わない夢から覚める旅に出よう。

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