Homo rehabilis【5】椎葉山根源記


 九州は宮崎県の秘境椎葉村にある、いまや国内唯一ではないかとも聞く伝統的焼畑の現場をどうしても見てみたいと思い、居ても立ってもいられなくなった僕は、思いきって現地を訪れてみることにした。けれども、今になって思い返してみると、この時の僕がどんな経緯で椎葉村の焼畑を知ることになったのか、その記憶がなぜだかとても不鮮明で、確かなことがどうにも思い出せない。こうした記憶の不確かさは、これから起こる出来事が僕に及ぼす影響がとても明らかなものであったことを意味しているのだが、その内容については追々、少しずつ書き記していくことにしよう。


  焼畑探訪



 当時暮らしていた大分の山間部から、熊本の阿蘇を経由して九州地方の背骨、九州脊梁山地をめざし車を走らせたその先、照葉樹林のおもかげをのこす山なみに数少ない民家がぽつぽつと点在する宮崎県東臼杵郡椎葉村は、面積の約九八%が山林という山岳地帯であり、平家の落人が逃げのびた隱れ里の伝説をもつ村として名高い。
 全国的にも名の知られた「ひえつき節」をはじめ、「春節」「秋節」「奥山節」といった、海の彼方の山岳民族を想わせる聴きなれない独特な旋律をもつ民謡や、古形を今にとどめる神楽、念仏踊りなど濃厚な民俗文化の宝庫であり、未だ法政局の参事官であった三〇代半ばの柳田國男が、当時の村長中瀬氏の知遇を得て狩猟文化についての民俗調査を行い、それを『後狩詞記のちのかりことばのき』としてまとめた事から、「日本民俗学発祥の地」とも呼ばれている。同書序の七より、焼畑についての記述を引こう。

の如き山中に在っては。木を伐つても炭を燒いても大なるあたいを得ることができぬ。〔・・・〕主たる生業なりわいはやはり燒畑の農業である。九月に切つて燒くのを秋藪と云ひ。七月に切込んで八月に燒くのを夏藪と云ふ。燒畑の年貢は平地の砂原より低いけれど。二年を過ぐれば土が流れて稗も蕎麥も生えなくなる。九州南部では畑の字をコバとむ。すなはち火田のことで常畠熟畠の白田と區別するのである。木場切の爲には山中の儉阻けんそに小屋を掛けて。蒔く時と苅る時と。少くも年に二度は此處ここに數日を暮らさねばならぬ。わずかな稗や豆の收穫の爲に立派な大木が白く立枯たちがれになつて居る有樣は。平地の住民には極めて奇異の感をあたへる。〔・・・〕牛馬は共に百年此方このかたの輸入である。米もその前後より作ることを知つたが。唯わずかの人々が樂しみにつくるばかりで。一村半月の糧にも成り兼ねるのである。米は食はぬならそれでもよし。いささかでも村の外の物が欲しければ。その換代かえしろは必ず燒畑の產物である。〔※振り仮名は便宜のために引用者が付した〕」

 九州屈指の高峰、国見岳の横腹をつらぬく長いトンネルと、緑の深い川沿いの曲がりくねった道を抜けて村に入る。まず訪れてみた民俗藝能博物館に展示されている正月飾りは、餅と雑穀の穂による装飾が印象的で、柳田の別の著作『食物と心臓』を想い起こさせる。供物の餅はがんらい神に捧げた心臓のかたちを模したものではないか、との推理を記したその本の端緒は、狩猟と焼畑の村での調査にあっただろう経緯がすんなりと脳裡に思い浮かぶ。館内で偶然お会いした村の方から、村で唯一軒、焼畑の伝統を守る御一家が集落の方々と協力して栽培されているヒエやアワなどによって、飾り物の伝統を絶やすことなく今も作り続けられているのだと聞いた。
 ふたたび車に乗り、さらなる山間部へ、舗装の荒い山路をゴトゴト揺られながら焼畑の現場へ向かう。村の中心部には巨大なダムがあり、奥地へはそのダムのぐるりを周って源流の川をさかのぼる道をゆくことになる。道沿いでは、ダムの工事でいのちを落とした人々の霊を祀るのだろう記念碑を眼にした。進むほどに路は細く曲がりくねり、細い川沿いの路に入ると急激に標高が上がってゆく。さらに山を越えれば熊本の五木村へと続く千メートル級の山間部に、焼畑が行われているのだと云う現場はあった。さすがにここまで高い場所に来ると、空氣そのものの体感が違う。氣圧や酸素濃度による影響もあるのかどこかしらおぼろな、夢の中にいるような感じもする。車を降り山を歩けば、鮮やかな夏の日射しと、木陰になった道の冷氣とが深いコントラストを刻む。一見ただ草が生えているのみのような現場をひとしきり眺めて、車を停めた場所に引き返すと、民宿焼畑のご主人が様子を見に来られていた。
 思い立って突然訪問してしまったことを詫びつつ話を聞けば、この年の焼畑の火入れは八月三日を予定されていたそうだが、連日降り続く雨で訪れた二十一日にもまだ行われずにいた。火入れには三日以上続く晴れ日が必要であり、毎年山の天氣と相談しながら火入れとソバの種播きを行うのだという。冬のうちに伐採された杉林の切り株が、伸びた夏草のなかで火の入る時を待つ。


  多様性の回復



 前年焼畑の行われた二年目の農地には植林された桜や栗、ブナ等広葉樹の苗木の中にヒエやアワの種が播かれ、発芽して成長した作物は山林に自生する多様な植物との半ば共生的な状態におかれていた。林業と「民宿焼畑」を営みながら伝統を守るご主人のお話によれば、繁茂のはげしいつる草など植林した苗木の生育を妨げる植物を適宜刈る程度で、除草もできるだけ行わず、自然の力にゆだねて栽培するのだという。
 代々焼畑に使われてきた雑木の山に限らず、杉林の一部も使って例年四、五反程の山林を伐り開き火入れしているのだという民宿焼畑のソバや雑穀は、自然の営みに身をゆだねた農法と、守り伝えてきた在来の種とがあいまってか一般の物とは食味が違うとの評判があり、全国的に見てもいまや貴重な食材だと言えるだろう。
 このとき聞かせていただいたお話のなかで特に心に残ったのは、今は伝統が絶えてしまったが、かつては焼畑でノイネ(陸稲)の栽培が行われており、その品種がジャポニカ系でなく長粒種のモチ米だったのでは? という事だ。この話は畑での陸稲栽培を考える際や、日本の食文化の多様性を再認識する上でも貴重な視座を与えてくれる。
 焼畑は水田や常畑に較べるとたしかに生産性の高い農法ではない。水田における米の生産力と比較すれば、陸稲のそれは三~四分の一程度とも言われる。参考に、文化人類学者・佐々木高明氏の著書『稲作以前』から、該当する箇所をかいつまんで引用しよう。

「一般に焼畑の収穫量は、その年々の天候のぐあいに支配され、年毎の偏差がはなはだ大きい。また作物によってもその収穫量が異なってくる。したがって、正確な値を知ることは、焼畑面積の場合よりもういっそう難しい。しかし〔・・・〕東南アジアの焼畑におけるオカボの収量は、大づかみにみて反当たり約八斗〔・・・〕と考えることができる。〔・・・〕明治年間までは、わが国でも、山間のちょっと悪い水田では、その水稲の収穫量も反当たりせいぜい三俵(約十二斗)程度だったわけだから、八斗/反という焼畑の収量も、それの三分の二ほどで、さして見劣りするものではない。焼畑の場合には、出来のよい年には常畑(永久畑)をはるかにしのぐ収穫量をあげることもしばしばある。」(『稲作以前』佐々木高明著/NHKブックス 1971/pp. 186-7.)

 焼畑の収量は年毎の氣象に依る部分が多く、豊作と不作の差が激しいのが特徴とされるが、日本の水田の平均収量が八俵/反、東南アジアにおける焼畑陸稲の平均収量は八斗/反、つまり二俵/反だと言う。焼畑の本質は生産性ではなく作物の食味の良さ、そして何よりも山林の保全にあるだろう。昨今は台風と集中豪雨による水害が例年化しているが、水害にあう土地はどこも杉かヒノキの単一的植林により山が痩せている。
 この島国に暮らす人々は海と山の恵みに生かされてきた。
 とりわけヒトは森の中で生まれ、森とともに生きてきた歴史が長い。深い森をはなれ、広い平野部に暮らすようになったのは主に縄文後期以後の事で、それ以後もヒトは山の幸に感謝しながら暮らしてきた。農薬と化学肥料に頼った慣行農法と輸入食品に依存し、山と森の多様性を顧みなくなった事による損失は大きい。日本の食と暮らし、生活文化の未来を考える上で、山林の再生と保全は何よりも切実な課題だ。
 敗戦後の、林業が儲かって笑いがとまらなかったと言われる往時に、寝る間も惜しんで植林されたのだという今や日本の山やまを覆い尽くしている杉やヒノキの林も、考えられない事だがほぼすべて人力で行われたのだから、永い年月をかけてヒトと共生してきた森の植生を取り戻す事も不可能ではない。今では価値も落ち管理の行き届かない杉やヒノキの山を、焼畑で活用しながら雑木に変えていくとりくみが、多様性に充ちた未来を導きだす選択として、特に重要ではないかと感じた。
 この年の取材では、天候不順な夏の長雨による度重なる日程の延期で火入れは九月までずれ込んだためスケジュールが合わず、焼畑を実際に眼にすることができなかった。移住したいという人も少なくないがそれは難しいだろう、勉強がてら来る人は多いから何度でも来てみたら良い、という民宿焼畑のご主人のことばに、自分もまさかこれほど山深い土地で暮らす力はないから無理ですと笑って頷き、これから先できるだけ定期的に椎葉村を訪れ、焼畑の実際と、村内に遺る民俗文化の取材や、農作物の在来種等に関する調査をぽつぽつ行ってみたいものだと考えていた。

この続きは発売中の『農藝ハンドブックvol.2 山と生きる』に掲載されています。

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