野のすみれ La Pensée sauvage ――野生の思考にみる和歌の本質


春の野にすみれ採みにと來しわれぞ。野をなつかしみ一夜宿にける 〔萬葉集卷八・一四二四〕山部赤人

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 フランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロース教授(Claude Lévi-Strauss, 1908-2009)のいわゆる〈野生の思考〉を念頭に、日本最古の歌謡集として伝えられた『萬葉集』を通読すれば、それが単なる編年体のアンソロジーではなく、「因果律の主題による巨大な変奏曲」であったことに氣づかされる。
『萬葉集』として編纂された一群の和歌は、歴史的背景の中で相互に関係性をもつ個々の〈通時的〉(diachronique)な集まりであるのみならず、空間・時間という次元に囚われることなくどこまでもれん関していく、一つの〈共時的〉(synchronique)な曼荼羅構造そのものを想起させるための、限定された断面の集合として提示されているのだ、と言い換えてみることもできるだろう。
 萬葉の時から現代まで、連綿と歌い継がれ、紡ぎ続けられてきた和歌の本質とは、そのラディカルな意味での儀礼性、呪歌性にあり、和歌を詠むものは先行する類型群と対話を交わし、歌群における一変奏としてその因果律に深く蹈みこみ、関わっていく態度が求められる。その態度とは、次のようなものだ。

「計画ができると彼ははりきるが、そこで彼がまずやることは後向きの行為である。いままでに集めてもっている道具と材料の全体をふりかえってみて、何があるかをすべて調べ上げ、もしくは調べなおさなくてはならない。そのつぎには、とりわけ大切なことなのだが、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な解答をすべて並べ出してみる。しかるのちその中から採用すべきものを選ぶのである。〔・・・〕しかしながら、これらの可能性はやはりつねに、材料それぞれ独自の歴史によって、またそのもとの用途のなごり乃至はその後の転用からくる変形によって限定されている。〔・・・〕したがって一つ選択がなされるごとに構造は全面的に再編成されるので、それがはじめに漠然と想像されていたままであることも、当初によりよいと考えられていたままであることもけっしてないのである。」(C.レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳/みすず書房/p. 24.)

 引用文はレヴィ=ストロース教授が〈ブリコラージュ Bricolage〉と呼んだ世界各地に普遍的、自然発生的にみられる知のあり方、ものづくりの手法であり、使い古された資材を寄せ集めてあらたなものを再編成するその手際から「器用仕事」とも翻訳されている。この手法はまた、近代科学の思考とは別の系統として発展した、古代社会や先住民文化において呪術や神話が紡ぎだされる際の特徴的な思考の型式でもあり、そのことを踏まえて〈神話の思考〉〈呪術的思考〉そして〈野生の思考 La Pensée sauvage〉とも呼ばれているものだ。
 この「La Pensée sauvage」という用語そのものも〈ブリコラージュ〉によってかたちづくられており、フランス語で「野のすみれ(野生種のパンジー)」をも意味するこの言葉との対話を通して「未開の思考」という幻想を祓い、「野生 sauvage」の概念を広い視野から再構成したことは良く知られている。〈野生の思考〉はこのように、歴史のなかで固定化されてしまった観念を、より根源的ラディカルなすがたへ呼び戻そうとする力でもあると言えるだろう。
 伝統的な作法、修辞法にのっとり和歌を詠んでみてわかることは、歌を詠む者に与えられる状況、材料や道具の問題、思考の展開経路はまさに〈ブリコラージュ〉のそれであり、和歌を詠むという行為に〈野生の思考〉が息づいていることを、確かに実感させられる。


  萃点としての〈有心の序〉



 和歌に内在する〈野生の思考〉とは何か、より具体的にいえば、伝統的な修辞法の一つである序詞じょことば、そのなかでも特に〈有心うしんじょ〉をすい点とした変奏群に関する事例を挙げることができるだろう。「萃点」とは、粘菌研究で知られる在野の博物学者・南方熊楠翁(1867-1941)が用いた語で、多様な因果が密に交錯している場を意味し、事物の道理を見いだすのに適した要点を云う。〈有心の序〉はまさに因果が密に交錯する修辞上の要点であり、和歌のもつ曼陀羅構造を垣間見るのに適している。
 有心の序とは例えば、萬葉集第八巻に採録されている日置へきの長枝ながえの娘子をとめの歌、

W.0 秋づけば尾花がうへにおく露のぬべくもはおもほゆるかも 〔卷八・一五六四〕日置長枝娘子

などに特徴的にみられる修辞法のことだ。「秋づけば尾花がうへにおく露」が「消ぬべくも吾はおもほゆるかも」に直結されることで、「秋になるとすすきの穂に降る水滴」が「消え入りそうに思われる私」を表わす比喩として働き、自然の動態とヒトの心情とが直ちにつながりあった一体として表出される、和歌に特徴的な思考のパターンを指す。
 萬葉集を通読し、そこに含まれる多種多様な類型群を比較してみると、〈有心の序〉をめぐる修辞群の内部では複雑な項変換が起こっており、修辞群全体、ひいては萬葉集そのものを「巨大な変奏曲」として捉えることなしには、一首のもつ意味あいを精確に把握することはできそうもない、という事実が次第に判ってくるだろう。
 ここでは仮に、日置長枝娘子の歌を基準歌(W.0)として置き、いくつかの例を挙げ比較してみることにしたい。

W.1 春去れば水草がうへにおく霜の消つつも我はひわたるかも 〔卷十・一九〇八〕作者不詳

W.2 わが宿の秋萩のうへにおく露のいちしろくしもわれ戀ひめやも 〔卷十・二二五五〕作者不詳

W.3 咲き出照る梅の下枝におく露の消ぬべくいもに戀ふるこのごろ 〔卷十・二三三五〕作者不詳

 第一変奏(W.1)を基準歌と比較すれば、ここでは〈秋⇔春〉〈陸上⇔水中〉〈内向⇔外向〉の対立項変換が起こっていることが見てとれる。秋から冬にかけて穂を出す植物である「尾花(ススキ)」が、春から夏の植物である「水草」に置換され、露は消えゆく霜にその姿を変える。古語の「去る」は季節や時を表す語につくと「なる(あるいは、来る)」を意味するため、「春去れば」は「春になれば」である。春はもうすぐそこまで来ているけれども、霜はまだ消え果ててはいない。ススキは天高く穂をのばすイネ科の陸上植物であり、対立項として水草、乾いた陸地よりも水辺を好む植物が置かれる。さらに「おもほゆる」「戀ひわたる」の〈内向⇔外向〉的二項対立とあわせて、変奏として特徴的な歌と言えるだろう。
 第二変奏(W.2)には〈少⇔多〉〈野生⇔栽培〉の対立項変換がある。古語の「いちしろく」は「いちじるしく」を意味し、「消ぬべく」つまり「消え入りそうな」と量的な対立を示し、野に咲くイネ科の穂芒ほすすきにかわって住居の庭先に植えられたものであろう萩の花、マメ科の植物が歌われている。第三変奏(W.3)においては尾花と梅による〈秋⇔春〉、吾を妹(親しい女性への呼びかけ)に置き換えた〈自己⇔他者〉の対立項変換が起こっている。

W.4 秋の田の穗のにおける白露の消ぬべくわれはおもほゆるかも 〔卷十・二二四六〕作者不詳

W.5 秋萩のうへにおきたる白露のかもしなまし。戀ひつつあらずは 〔卷十・二二五四〕作者不詳

 第四変奏(W.4)は基準歌と同じく季節は秋で、どちらもイネ科の植物であるススキと稲の〈野生⇔栽培〉あるいは〈多年草⇔一年草〉の対立項変換と、露を白露とする変化が見受けられる。江戸時代の暦の解説書として著名な『こよみ便覧』に「陰氣やうやくかさなりて露こごりて白色となればなり〔こごりて、はこごる、凝固するの意。にごりて、とする引用は誤記〕」とあるように、二十四節氣のひとつ「白露はくろ」以後の水田の光景を比喩に用いたのだろう歌で、稲の刈り入れ前であることから秋分の前後であると推測できる。基準歌は秋の初めの光景であるから、〈初秋⇔中秋以後〉の項変換が起こっていると考えて良い。
 第五変奏(W.5)では、露を白露とする項変換に加えて、下の句に表出された心情部分の反転が顕著だ。「消かもしなまし戀ひつつあらずは」とは「思いつづけているよりは消え失せてしまいたい」の意であり、「消え入りそうな私」(W.0)から派生した「消え入りそうな恋」(W.3)や「著しい恋慕の情」(W.2)が、ここでは「消え失せてしまえばよい過剰な感情」として表出される。
 萩は庭木として愛でられると同時に山野に自生する植物でもあったため、ここでは〈野生⇔栽培〉の対立項変換は必ずしも生じていない。あるいは、萩には古来女性的なイメージがあるから、尾花との間に〈男性⇔女性〉の項変換を読み取ることも可能だろうか。萬葉集巻十には下の句が同じ歌がさらにいくつかある。ここでは第五変奏の類型として挙げておこう。

W.5-1 秋萩の枝もとををにおく露の消かもしなまし。戀ひつつあらずは 〔卷十・二二五八〕作者不詳

W.5-2 秋の穗をしのにおしなべおく露の消かもしなまし。戀ひつつあらずは 〔卷十・二二五六〕作者不詳

 第五変奏類型一(W.5-1)では、萩につく露の量の著しさが「枝もとををに(枝がたわむ程に)」と表現されている。露はどちらかと言えば儚いものというイメージが強く、この歌は「消え失せてしまえばよい」との思いが過剰に募っていることを感じさせるため、〈過少⇔過剰〉の項変換が起こっていると言えるだろう。
 類型二(W.5-2)の白文表記は「秋穗乎之努尓押靡置露消鴨死益戀乍不有者」であり、植物は単に「穗」と記されている。集中の別の歌で「穗」は稲を意味するため、この「穗」もおそらくは稲穂であり、〈野生⇔栽培〉の対立項変換とも取れるが、「めづらしき君が家なる花すすき穗に出づる秋の過ぐらく惜しも(目頬布君之家有波奈須爲寸穗出秋乃過良久惜母)」〔卷八・一六〇一〕のようにススキの穂を「穗」と記す例もあるため、ススキの可能性も完全には否定できないように思う。「しのにおしなべ」は「しっとりとおし靡かせて」の意であり、収穫前の稲が一面にしっとり湿っている様にあまり良い印象はない。
 この二つの類型は、下の句の心情部分に上の句の自然の動態描写が引っ張られている感があり、強い作為を覚えるため良い歌ではないが、ある種の意図を籠めて用いた〈呪歌〉であると考えるならば、一連の変奏群における立ち位置も推して知ることができるかと思う。


  古代歌謡の系譜



 上に挙げたいくつかの変奏はまだほんの一例ではあるが、このように萬葉集は〈有心の序〉等を萃点として対立項変換をくりかえす歌群の呪術的集合であるとも言え、一首を一首として、作者個人の心情をはかる近代的な読みがいかに適切でないか窺い知ることができるだろう。呪術的儀礼性のなかにある歌、〈呪歌〉については、中国文学研究の碩学白川静博士(1910-2006)の著作『初期万葉論』に詳しい。

「古代の歌における発想と修辞は、その表現の全体において大きな約束のなかにある。すべてはその約束のなかにおいて表現されるのであり、またしたがってそのようなものとして理解されなければならない。」(『初期万葉論』白川静/中央公論社 1979/p. 149.)

 古代歌謡の系譜を継ぐ萬葉の和歌は、主に儀礼的集団性のなかにおいて歌われたものだと言える。萬葉時代の代表的歌人・柿本人麻呂は、時の天皇に従駕して儀礼を執り行う遊部あそびべに属した献詠歌人であるといわれ、あくまで職能的氏族集団の一成員として古代的呪歌を謳い、独特な詠風に昇華させた。萬葉集全二十巻の随所に引用されている『人麻呂歌集』とは人麻呂個人の家集ではなく、人麻呂の属する氏族集団に伝承された歌を彼の名の下にひとつに纏めたものではないかとも言われている。
 萬葉の時代における和歌は、古代社会の氏族集団に属する成員がおこなう呪術的行為であり、単なる藝術的営為ではない。和歌の本源であった古代歌謡は、明確な目的と結果を期待して執り行われた演劇的儀礼の重要な一部をなすものであり、具体的な儀式が省略されるようになった後の和歌にもそうした呪術的儀礼性は引き継がれている。だがそもそも、ここまで漠然と記してきたこの〈呪術〉という言葉は、いったい何を意味しているのだろうか。
 ここに言う〈呪術〉とは文化人類学的文脈における〈magic〉の訳語であり、必ずしも人や物を呪う行為を意味してはいない。そこには人や物を祝福する行為や、善悪どちらと定義することの困難な行為も含まれている。その語義は社会や文脈によって大きく異なり、いままで様々に定義されてきたが、この文章ではおおまかに「何かを確定させようとする行為」を意味する語として用いる。呪術と呼ばれているものの最たる例は「占い」であり、それはまさに「何かを確定させようとする行為」だ。未来の天氣や、闘争の勝敗を予め知ろうとすること、過去の出来事がもつ意味を明らかにすること等が、占いと呼ばれている行為の主な目的である。
 さらに言えば、事物を「名付ける」こともまた呪術であり、そこから派生した「名を呼ぶ」ことも同様に何かを確定させようとする行為である。この意味においては、ヒトが言葉などの音や記号を用いておこなう表象行為のほぼすべてが呪術であり、古今を問わずヒトは呪術的世界を生きていることになるのだが、これは一概に大袈裟な話ではない。言語とは現在おもに考えられているような単なるコミュニケーションの手段ではなく、ヒトのからだに同居している何らかの物理的実体とヒトとの相互作用のあらわれであって、彼らは和歌や神話などの形をとってわれわれのうちで確かに活動している。古代の日本人は彼らのそうした営みを含めて「言霊ことだま」と呼んだ。
 民俗学研究でも知られる国文学者・折口おりくち信夫しのぶ博士(1887-1953)は、古代の「言霊信仰」を次のようなものであると捉えている。

ほむほぐと言ふ語は豫祝する意味の語で、未來に對する賞讚である。その語にかぶれて、精靈たちがよい結果を表すと言ふ考へに立つて居る。言語によつて精靈を感染させようとする呪術である。其上に言語其物にも精靈の存在して居るものと信じて居た。「言靈コトダマさきはふ」と言ふ語は言語精靈が能動的に靈力を發揮することを言ふ。言語精靈は、意義どほりの結果を齎すものではあるが、他の精靈を征服するのではない。」(「國文學の發生」/『折口信夫全集 第一卷』/中公文庫/p. 74.)

 言語がある種の精霊であるのならば、コトバによって語られた神話の構造は、神、あるいは精霊のかたち、その姿であるとも言える。構造言語学の手法を用いて神話を構造分析したクロード・レヴィ=ストロース教授は、その大著『神話論理』そのものが何であるかについて、それ自身の中でこう言明している。

「わたしは、ひとびとが神話の中でどのように考えているかを示そうとするものではない。示したいのは、神話が、ひとびとの中で、ひとびとの知らないところで、どのようにみずからを考えているかである」(『神話論理Ⅰ 生のものと火を通したもの』レヴィ=ストロース著/早水洋太郎訳/みすず書房 2006/p. 20.)

 神話の構造が「みずからを考え」るものであるならば、それはもはや単なる構造ではなく、機能と自律性をもった「生命」だと言えるだろう。レヴィ=ストロース教授が探求した〈野生の思考〉とはつまり言語精霊、言霊の営みであり、ひとびとのからだに同居したコトバが、ひとびとの知らないところで考える有り様がそこに示されているのだとも読みうる。
 和歌や神話に内在する〈野生の思考〉とは本来このようなもので、そこに示されている曼陀羅状の構造体はコトバと呼ばれることもある不可思議な生命体の営みを意味している、と仮定して考えてみよう。言語がヒトのからだに同居した何らかの物理的実体とヒトとの相互作用の顕れであるか否かの是非は一先ず措いて、「何かを確定させようとする行為」としての〈呪術〉について、さらに考察を深めてみたい。


  光景の彼方



 呪術の端的な例として挙げた「占い」は観測行為である。過去・現在・未来いずれかの時点における事象の状態を、今という視座からどのようなものであるか観測する。量子力学の不確定性原理によれば、粒子レベルの一つの現象に関して、二つの異なる物理量を同時に精確に観測することはできず、片方の物理量は確率的にしか表現することができない、とされる。こうした、確率的にしか表現できない状態を「量子ゆらぎ」(Quantum fluctuation)と呼ぶが、すべての存在は粒子レベルの微細な視点から眺めるとこのように揺らいだ姿として認識されるのだと云う。
 記号によって物理的な状態を定義しようとする観測行為は、「何か」としか呼び得ない〈ゆらぎ〉のなかにある実体としての存在に一時的なかたちを付与する。「何かを確定させようとする行為」としての〈呪術〉はこうして「何か」である存在に一時的な質量を結びつけるが、二つの異なる物理量を同時に精確に観測することはできないため、その存在を規定する別の物理量は確率的にしか表現することができない。その不確定な要素を、〈野生の思考〉は象徴機能を用いることである種のヴィジョンの重ね合わせとして表出する。そうした重ね合わせが、和歌の〈有心の序〉における自然の動態と人の心情の同化として顕れてくるのだ。さらに言えば、その重ね合わせ自体が〈ゆらぎ〉のなかにあるため、一つの歌に示された光景の彼方に、いくつもの重ね合わせが連なってひろがる曼陀羅状の構造体をかたちづくることになる。それが萬葉集を通して垣間見ることのできる「因果律の主題による巨大な変奏曲」だ。

「一つの解答を選択すれば、他の解答を選んだ場合とは結果が当然違ってくる。したがって、特定の一つの解答が鑑賞者に提示されるとき、それは同時に、こうした可能な変形の一覧表が潜在的に与えられていることになる。」(レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳/p.31.)

 とは言え、ただ機械的に処理することで無限に生成されていく可能な変奏の一覧表は、意味をなさない順列組み合わせや、論理の破綻を孕む。だからこそ和歌を詠む主体である一人ひとりに要求されるのは、一つひとつの言葉が担う意味や論理、多様な文脈との真摯な対話であり、それは「職能的氏族集団の一成員」という意識のみで認識可能なものではない。白川博士が「大きな約束」と呼んだものは、そうした集団意識を包みこむように運動している複雑な構造体としての〈野生の思考〉であり、その存在が忘れ去られた時、固定化された空間に〈あそび=ゆらぎ〉を呼びおこすものであった遊部の呪術的儀礼はその本義を喪い、氏族集団の意識を意味の喪失と矛盾によって縛るものへと変容していく。
 僕がこの試論に着手することになった発想の原点には、無文字文化であった縄文時代に、この島国に棲んだ人びとの思考や感覚がどのようなものであったのかを、古代における意識の過渡的な段階にあった萬葉時代の歌を通して垣間見てみようとすることにあって、ここで提示した〈あそび=ゆらぎ〉としての〈野生の思考〉は、縄文土器に表象されていたとされるミシャグチなどの精霊と深い関わりをもつものだ。けれどもそれを的確に詳述しうるだけの資料が手元にないため、萬葉と縄文についての考察は別の機会にすることとしよう。


  ラディカルな儀礼性



 それではさらに、ここまでの話を念頭に置いて、〈有心の序〉をめぐる変奏群の続きを見てゆくことにしたい。

W.6 夕べ置きてあしたぬる白露の消ぬべきこひも吾はするかも 〔卷十二・三〇三九〕作者不詳

W.6-1 あ した咲き夕べは消ぬるつき草の消ぬべき戀も吾はするかも 〔卷十・二二九一〕作者不詳

 第六変奏(W.6)に描かれている露は夜露である。ここまで見てきた変奏群における「露」が何を意味していたかはそれぞれの歌で異なるが、単に露という場合は朝露か雨露を指すことが多く、「置く露」は特に指定のないかぎり朝露を想い起こさせるものだ。結露は寒暖の差が激しい春や秋に起こりやすく、一日で最も氣温の下がる朝がそれを眼にすることの多い時間だろう。
 類型一(W.6-1)で露は「つき草」に変わる。つき草は、折口信夫博士の『萬葉集辭典』によれば「露草の古名」であり、露は植物である露草へと転じ、朝と夕べも逆転している。この二つの歌は、どちらかがどちらかの本歌なのだろう。どちらも「消え入るような恋をしている私」を歌っているが、歌の重点は「われ」にあって、序詞は単なる比喩に止まっている感があるため、実感に乏しい。このように「本歌取り」の意識が高まるとともに〈有心の序〉がその本質的な力を喪い、形骸化していく様にはしっかりと留意しておきたいところだ。
 奈良・平安・鎌倉と時代が下るにしたがい、和歌の外面的な意味における儀礼性、呪術性は希薄になっていく。だが、白川博士が「大きな約束」と呼んだ〈ブリコラージュ〉に特有の呪術的手法、和歌が本質的に内蔵する〈野生の思考〉はそれを伝承する集団のなかにおいて脈々と歌い継がれ、僕たちの意識の基底部に辛うじて温存されながら今に至っている。

W.7 朝なさな草の白く置く露の消なば共に、といひし君はも 〔卷十二・三〇四一〕作者不詳

W.8 朝日さす春日かすがの小野に置く露の消ぬべきわが身惜しけくもなし 〔卷十二・三〇四二〕作者不詳

 第七変奏(W.7)における〈有心の序〉は、すれすれのところでその本質的な呪力を保っているように思える。基準歌に「消え入りそうに思われる私」として表出されていた主体は、ここでは「消えてしまうのであれば一緒に、と言ったあなた」へと変じ、〈単独⇔複数〉〈一人称⇔二人称〉〈未来⇔過去〉といった複雑な対立項変換が起こっている。歌のうたわれた時点で「あなた」はすでに「消えて」おり、共に「消えてしまう」はずだった「わたし」は一人ここに取り残されている、というのが下の句に描かれている主体の姿だ。けれども、上の句に「朝が来るたびに草の上に降る白い露」という自然の動態を描きだすことで、「露のように消え失せてしまった君」が朝露のように幾度もあらわれる光景がかすかに浮かびあがって視える。ここには〈有心の序〉のもつ〈呪歌〉としての本質が活きており、露に染みついた儚さの幻像イメージを祓う、詠み手の意志を読み取ることもできるだろう。このような意志をもって固定観念を払拭していく意識は、和歌のもつ「ラディカルな意味での儀礼性」の重要な一部であり、意味の「無意味な固定化」を食い止めることが、共時的な曼陀羅構造のもつ本来の力だと言いうる。

「野生の思考の特性はその非時間性にある。それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする。野生の思考の世界認識は、向き合った壁面に取りつけられ、厳密に平行ではないが互いに他を写す(そして間の空間に置かれた物体をも写す)幾毎かの鏡に写った部屋の認識に似ている。多数の像が同時に形成されるが、その像はどれ一つとして厳密に同じものはない。したがって像の一つ一つがもたらすのは装飾や家具の部分的認識にすぎないのだが、それらを集めると、全体はいくつかの不変の属性で特色づけられ、真実を表現するものとなる。」(『野生の思考』 p. 317.)

 このように、固定化された時空間の幻像を祓いのけて本来のすがたをちあがらせようとする抜本的ラディカルな呪術的儀礼行為を、国文学者であると同時に詩歌や小説を物す創作家でもあった折口信夫博士(歌人・釋迢空 しゃくちょうくう)は、次のような言葉で言いあらわした。

「古代日本人の信仰生活には、時間空間を超越する原理が備つてゐた。咒詞のりとの、太初ハジメに還す威力の信念である。」(「水の女」/『折口信夫全集 第二卷』/中公文庫/p. 105.)

 それとは逆に、第八変奏(W.8)では下の句の主体は「消え入りそうな私」から「消えてしまう我が身」に転じる。この変化は、微々たるもののように思われるかも知れないが、「消える」ことを確定させた影響はきわめて大きい。存在の本質としてある〈ゆらぎ〉(不確定性)を手離すことで、主体は自分自身を見失い、我が身を「消えても惜しくないもの」と思い込むようになるのだ。上の句では「朝日に照らされて煌めくが消えてしまう露」の姿がどこか雄壮な調べで謳われ、死んでも蘇ってくるだろう様が隠喩的に表出されている。
 けれども、ある一方を確定させると、他方は確率的にしか表現できなくなる。この歌においては、我が身を「消えても惜しくないもの」と確定させた結果、消えた後の主体がどうなってしまうのかは必然として不確定となるため、論理的に矛盾を生み、時間的な負の循環現象を引き起こしている。この問題は、数学的に言えば「ゼロ除算」として定義しうるだろうものだ。
 ゼロという数には数学的に定義不能な性質がある。どんな数もゼロで割ることはできず、数学的に矛盾なく定義することができない。この問題は「ゼロ除算」と呼ばれ、現状の数学におけるひとつの限界を示す、暗黙の了解とされている。
 ゼロでない数をゼロで割ることはできず、ゼロをゼロで割る場合の解は定まらない。言い換えれば、

   a / 0 = x のとき a ≠ 0 であれば
   0×( a / 0 ) = a であるから
   0×x = a

 この場合、xがどんな数であっても a = 0 となり、a ≠ 0 という前提に矛盾するため、問いが成り立たない。よって、ゼロでない数をゼロで割ることはできない(不能)。同様に、

   0 / 0 = x のとき
   0×(0 / 0) = 0 であるから
   0×x = 0

であるが、どんな数にゼロを掛けても解はゼロであるため、xは定まらない。よって、ゼロをゼロで割る場合の解は定まらない(不定)。つまり「何にでもなれる(もしくは、何でもよい)」となるため、論理的にいえば「無意味」とほぼ同義である。ゼロ除算を処理不能な数学的例外として定義していない演算装置でこの処理が発生すると、解の定まらない演算を無限に行おうとするため装置が機能停止し、復旧にかかる時間で致命的な状況をまねきうることが知られている。
 そうした演算装置とおなじく、文意の錯誤エラーによって無限ループする時空間に閉じ込められた主体は、再び主体性を回復するまでの永い時のあいだにわれを失い、いつしか時間というものの本質すら忘れてしまうことで、仮想化された空間の亡霊となる。
 我が身を「消えても惜しくないもの」と定義することは、a = 0 とした上でゼロ除算を行うことにほぼ等しい。ゼロをゼロで割る場合の解は定まらない、つまり「何にでもなれる」ため、主体性を欠いた存在は無限に転生を繰り返す幻影に囚われ、「無意味」という論理的矛盾に縛られることとなるのだ。けれども意識の仮想空間は意味をもとめて無限に演算を続けていく。こうして出現することになる亡霊の幻影には、〈野生の思考〉がその特性としてもつ「非時間性」が密接に関与している。


  えーえんとくちから



 当初数学が専門であったというフランスの哲学者アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson, 1859-1941)が、その処女論考『意識に直接与えられているものについての試論』で用いた「持続 durée」という語には、数学における「連続」の概念、そして通時的な文脈における「時間」そのものが孕む矛盾が提示されている。
 ベルクソンの実感において、時間とは本来「持続」そのものであり、それは時計の針や数字によって計測可能なものではない。僕たちが社会的通念として教わり、日常用いているところの数学的に定義された「いわゆる時間」はあくまで仮想的に「空間化された時間」に他ならず、さらに、ベルクソンのいう「空間」とは実質としての「動きそのもの」を「空間」上の物理的な「動体の軌跡」に翻訳してとらえることであって、彼はこのような認識を「質」と「量」とを明確に区別することなく事象を数的にあつかうことから生じた誤った翻訳、意識によって作りだされた錯覚であると看做みなした。

「事物、とりわけ時間について考えをめぐらす際にさえ、わたしたちはそれを幾何学空間の中に展開させ、過去・現在・未来というある種の「ひろがり」をもったイメージとして並置し、等質なものとして扱う。そこでは必然的に、ものごと本来の「質」は相対化され、事象の「量」が問題とされる。こうして時間は、意識に直接与えられているものである感覚、多様性のもつ特色としての微妙な差異を失い、意志の欠けた実在性のない空虚な「空間の亡霊」となるのだ、と言う。」(拙稿『Homo rehabilis【1】あしたの旅』

 物理学において定義された「時間」とは「周期」とほぼ同義である。
 ここに言う「周期 Period, Cycle, Circle, or Time」とは、惑星の自転、公転などにともなうとされる反復性であり、定期的に同じことが繰り返されるという仮定の上で、ある時点の状態に一度循環して戻るまでの長さとしての時間・・・・・・・・をいう。僕たちが日頃用いているところの「時間」はこの「周期」であり、ベルクソンは「持続」における本質的な時間感覚・・・・(意識に直接与えられているもの)は再現不能な一度きりのものであるととらえているため、同一の現象が二度以上起こるという前提においての「時間」は、実在しない「空間の亡霊」であると述べた。時計やカレンダーによって示されているところの、反復可能な事象としての「時間」はあくまで「周期=空間化された時間」である。
 レヴィ=ストロース教授が「野生の思考の特性はその非時間性にある。それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする」と書き記すとき、非時間性とは周期化することのできない実感としての時間(持続)を意味しているのだろうと思える。 〈野生の思考〉は言語のもつ象徴機能を用いてそれをほのめかそうとするが、言語そのものは「周期性(つまり、普遍性)をもつもの」としてその立場を確定させようとすることにより機能しているため、象徴機能によるほのめかしは必然として確率的にしか認識できないものにとどまる。
 和歌に内在する〈野生の思考〉を、共時的な曼陀羅状の構造体として把握しようと試みるとき、僕たちはそれを周期化された空間的な時空構造体としてイメージしがちだ。僕自身も当初、そうした空間的虚像に囚われ、永遠に無限分岐する因果の多元宇宙を想像していた。けれどもそれは、時間というものへの誤解から生じる虚像だ。僕たちは周期化された空間としての時間という〈永遠〉から解放される必要があり、和歌、そして言葉というものにはその力が内包されている。
 二〇〇九年に二六歳の若さで夭逝した歌人・笹井宏之さんに、

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

という歌がある。僕自身とほぼ同世代の、寺山修司以後に出現した稀有な感性の歌人であった彼のこの歌は、僕の脳裡に大きな問いかけとして焼きつき、「永遠解く力」とはいったい何であるのか、ずっと自らに問いつづけてきた。彼の言う「永遠」とはおそらく、すでに述べたように、周期化された「空間としての時間」という仮想的な虚像のなかに生じる、自動的な無限反復運動のことだと思える。
 この自動的な無限反復運動は、おおまかに言えば、事物を演算可能な確定された質量として記号化していく過程で、標本化(sampling)により得られたデータを解析する際におこなう「フーリエ変換」によって生じた「周波数軸上に無限に現れることになる、元信号のスペクトルのイメージ成分」である。「スペクトル」(spectre)とは、複雑なかたちの情報や信号をより単純なかたちの成分へと分解し、その大小(量)に従って配列したものだ。
 また「スペクトル」はフランス語の spectre に由来し、英語の spectrum(スペクトラム)同様、ラテン語で「見る」を意味する動詞 specere から派生した名詞 spectrum(スペクトルム)を語源にもつ。原義は 「見えるもの」「現れるもの」であるというこの語は「像」を意味し、また、「幻影」や「亡霊、幽霊、お化け」そして「不安」などを意味する英語の名詞スペクター(specter あるいは spectre) や、傍観者(spectator)とその語源を共有している。
 十九世紀フランスの数学者・物理学者で次元解析の創始者とされるジョゼフ・フーリエ(Jean Baptiste Joseph Fourier, 1768-1830)に由来する「フーリエ変換」(FT:Fourier transform)とは、実質として存在する複雑なかたちの事象を、周期化された空間としての時間のなかで、単純なかたちの正弦波の重ねあわせに分解していく作業である。こうして数学的に表現された純粋な波動である正弦波は、周期性をもつ仮想空間のなかで永遠に減衰することなく、無限に反復される。これが「周波数軸上に無限に現れる、元信号のスペクトルのイメージ成分」であり、さまざまなノイズや歪みの原因としても知られているものだ。
 ヒトがおこなうほぼすべての記号化は、意味の確立した単純な要素の重ねあわせへの分解と再構成であり、おおまかに言ってフーリエ変換と同等の作業を孕んでいる。ここにたち顕れてくる理想形としての正弦波は、その単純さゆえに扱いのむづかしいもので、その本質をしっかり把握しようという意志をもたずに用いた場合、ヒトの認識を幻像で覆いつくし、永遠という「自由の牢獄」に幽閉することの可能な、おそろしい力を秘めているものだ。けれども「永遠解く力」は、永遠そのものへのより深い認識のなかに籠められている。


  生命の水



 ここまで見てきた〈有心の序〉をめぐる変奏群の基準歌として提示している、日置長枝娘子の和歌、

W.0 秋づけば尾花がうへにおく露の消ぬべくも吾はおもほゆるかも 〔卷八・一五六四〕日置長枝娘子

とは、いくぶん遠い距離にあるようにも思える変奏群を、さらにいくつかここに挙げてみたいと思う。

W.9 秋山のの下がくりゆく水のわれこそさめ、御念おもほすよりは 〔卷二・九二〕鏡王女

W.10 八釣川やつりがわ水底絶えず行く水のぎてぞ戀ふる。この年ころを(或本の歌に曰く、水尾も絶えせず) 〔卷十二・二八六〇〕人麻呂歌集

 鏡王女かがみのおおきみの詠んだ歌であるとされる第九変奏(W.9)において、露は水に転じる。水と露は物質的にみれば同じものだが、その呼び名が異なることで印象は大きく変わる。露は「消え入りそうなもの」の象徴として用いられ、ここでの水は「私が貴方を思う心の、溢れんばかりの有り様」を表すものとして顕れている。上の句に「秋山の樹々に覆い隠されて見えないが、確かに流れてゆく水」の姿が描かれることで、有心の序により直結された下の句の「貴方が私を思って下さる心にもまして、私は貴方に溢れんばかりの想いを抱いている」ことがこれまで深く秘められていたことが判る。露から水への変換は、ここでは〈過小⇔過多〉の対立項変換として機能している。薄に降りた水滴は見えているが、紅葉しているのだろう樹の蔭(あるいは落ち葉)に隠された水は見えない、つまり〈可視⇔不可視〉の変換がある。どちらの歌にも共通しているのは、知ってもらいたいという思いである。
 人麻呂歌集よりの引用歌とされる第十変奏(W.10)は、「絶えることがない」ことを歌った典型的な人麻呂の歌風であり、

W.10-1 卷向まきむく痛足あなしの川ゆ往く水の絶ゆることなくまたかへり見む 〔卷七・一一〇〇〕人麻呂歌集

をこの歌の類型一(W.10-1)として挙げることもできるだろう。どちらの歌も上の句は滔々と流れる川の描写であり、第十変奏では「何年も継続して思いを寄せている」さま、類型一では「絶えることなくまた帰ってこよう」という意志の姿が、水のもつ永遠性と直結されている。
 どちらも時の天皇に従駕した献詠歌人としての作であり、朝廷の永続を確かなものとするための呪術行為として歌われただろうものだ。けれども、類型一はとくに叙事的な描写力が短歌史上における頂点にまで達しており、天皇制の永続という通時的なテーマをはるかに超えた、自然美の永遠性を読み手に感じさせる地平まで辿り着いている。和歌と天皇制の関係は深く、その功罪もおおきなものではあるが、この歌に僕は、そうした差別構造をも還元可能な「永遠解く力」の律動を感じる。
 こうした自然のもつ本質的な永遠性は、基準歌に描写された「消え入らんばかりの露」やその他の多様な変奏との深い関係性において把握されるものであって、一首を一首として読むにとどまらない、「因果律の主題による巨大な変奏曲」としての萬葉集がもつ意味は、こうした変奏をすべてが重ねあわせられた一つの全体として実感することにあるのだと言える。

W.11 やまかげの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも 良寛

 最後に挙げるのは、萬葉集を離れて江戸時代の僧・良寛(1758-1831)の歌である。この歌は、いまの僕が知るかぎりにおいては、〈有心の序〉を用いて歌われた和歌のなかの、最も調和のとれた一つだと言える。季節は定かではない。どの季節であっても、この光景はそれぞれの新鮮さをもって読み手の前に描き出される。その、時間を問わぬ〈あそび=ゆらぎ〉は、水をすい点とした〈有心の序〉が象徴的に実感させようとしている何かに、確かな深い味わいを与える。それは「かすか」なものだが、量のすくなさは幻想である。かすかさゆえに、わたしのいのちはどこまでも澄みわたることができる。良寛がそっと山水を口に含むと、水は澄みわたり、良寛も澄みわたり、読み手も「かすかに」澄みわたることができる。このかすかな実感のひびきが、永遠解く力だ。いのちの水はいまも僕たちのなかに静かに生きて、あらたな歌で呼びさまされる時を待ち望んでいる。



参考文献|References

『新訂新訓万葉集』佐佐木信綱編/岩波文庫 1975
『白文萬葉集』佐佐木信綱編/岩波文庫 1949
『補訂版萬葉集 本文篇』佐竹昭広他/塙書房 1998
『萬葉秀歌』斎藤茂吉/岩波新書 1968
「口譯萬葉集」折口信夫/『折口信夫全集 第四・五卷』/中央公論社 1966
「萬葉集辭典」折口信夫/『折口信夫全集 第六卷』/中央公論社 1966
『野生の思考』C・レヴィ=ストロース/大橋保夫訳/みすず書房 1976
『今日のトーテミスム』C・レヴィ=ストロース/仲澤紀雄訳/みすず書房 1970
『構造人類学』C・レヴィ=ストロース/荒川幾男他訳/みすず書房 1972
『南方熊楠コレクションⅠ~Ⅴ』南方熊楠/中沢新一編/河出文庫 1991
『こよみ便覧』太玄斎/国立国会図書館デジタルコレクション/天明七年版 1787
『初期万葉論』白川静/中央公論社 1979
「國文學の發生」折口信夫/『折口信夫全集 第一卷』/中公文庫 1975
「水の女」折口信夫/『折口信夫全集 第二卷 古代硏究 民俗學篇1』/中公文庫 1975
『思想 No.1016』/岩波書店 2008.12
『神話論理Ⅰ 生のものと火を通したもの』C・レヴィ=ストロース/早水洋太郎訳/みすず書房 2006
『金枝篇』J・G・フレイザー/永橋卓介訳/岩波文庫 1951
『物質と光』ルイ・ドゥ・ブロイ/河野与一訳/岩波文庫 1972
『なぜ、0で割ってはいけないか』中村文則/数学のいずみ 2005
『量子と情報』小澤正直/青土社 2018
『時間と自由』アンリ=ルイ・ベルクソン/平井啓之訳/白水社 1975
「「空間」と「持続」―アンリ・ベルクソンにおける空間と主体について―」和泉浩/『空間・社会・地理思想 5』/大阪市立大学 2000
Bergson, Henri-Louis. “L' Essai sur les données immédiates de la conscience.” Paris, Alcan, 1908 (6eme édition).

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