Homo rehabilis【8】微生物主観と三千世界
僕たちヒトは本来自然そのものであり、天地にあまねく存在する動植物、微生物たち、有機物、無機物のかたちづくる生態系の複雑な相互関係を更新しつづけるという役目を自ら担っている。そのような立場を選び、多様な存在同士の関係性に対して開かれているヒトのからだは、必然として一種の〈媒体〉としてはたらく機能をもつため、常に様々なモノの介入に自らをさらしている。
ここに言う〈媒体〉とは英語の「medium」もしくは「vehicle」の訳語で、前者は「中間的なもの」、後者は「乗り物」を意味する言葉だ。ヒトにはその語があらわしているところの機能があり、自分自身や身のまわりの誰かが不安や雑言、負の連鎖の種となるようなことばを口にするとき、よく氣をつけて聴きわけてみればそれはそのヒト自身がもつ本来の声、うごきではない。
〈ゴーストハック〉と微生物
日常の様々な瞬間に見られるこういった現象、一見して氣づかぬほど微妙な具合にヒトが自律性を喪い、何者かに操られている状態をここでは仮に〈ゴーストハック〉と呼ぶことにしたい。この語は漫画『攻殻機動隊 Ghost in the Shell』(士郎正宗/講談社 1991)からの流用であり、作中において生命を生命、個人を個人たらしめている要素である〈ゴースト〉が、何らかの影響でその自律性を喪うことを意味する。
僕がごく日常的な範囲で眼にしたことのある例としては、工業的に合成もしくは精製された甘味料や添加物などを摂取した子どもが自律性を喪い、単なる我儘で片付けるには不可解な行動をとり、一種のコミュニケーション不全に陥る場面がまず挙げられるだろう。母親がどれだけ丁寧に話しかけても、なぜだか蜘蛛の巣に蜜柑の皮を投げ続ける子ども・・・・・・。母親は営巣中の蜘蛛のいのちや営みについて出来るだけ親身に、人間本位な論理の強要といった要素をなるべく排しながら語りかけているが、合成甘味料を摂取した子どもは不思議な無表情を湛えて蜘蛛の巣に蜜柑の皮を投げつづける。そこには本来あるはずの対話の余地がない。
もちろん、合成甘味料や食品添加物を摂取した全ての子どもがこの状態に陥るわけではなく、この光景はとてもわかりやすい例だ。実際には、外面上は何ら変わった点もなく常識の範囲で自発的に行動しているように見えるヒトの多くが、本質的な意味での自律性を喪失し、道義的に矛盾した行為をおこなっている。僕自身の体験としては、長らく合成甘味料を口にしておらず、ある時それと知らぬ間に食べてしまったことがあり、その直後はなぜか意志と行動が矛盾して携帯用電池を無為にショートさせ破壊してしまう行為に及んでいた。
合成甘味料や乳化剤などに代表される食品添加物は、ヒトのからだの粘膜透過性を上昇させ、リポ多糖(LPS:lipopolysaccharide)やさまざまな有害物質の体内への侵入を助長するとともに、消化管粘膜の防御機構である粘液層を変化させる等の影響を通じて〈ディスバイオシス〉(常在菌の多様性喪失と、それにともなう相互作用の不調和)を惹き起こすものと考えられている。リポ多糖はヒトの脂肪細胞を炎症により肥大化させ、数少ない細胞に多量の脂肪が詰めこまれてしまう機能障害を引き起こしているのではないかとも推察されている。いわゆる「肥満」と呼ばれている症状は、単に脂肪の量が多いのではなく、全身の細胞が炎症を起こし肥大化しているというのが正確な認識のようだ。太った人の脂肪細胞には免疫細胞がぎっしり集まっていて、まるで感染症と戦っているように見えるのだと云う。
リポ多糖とは「グラム陰性細菌」(グラム染色という化学処理の結果、紫色に染まらず赤く見える細菌)の外膜の構成成分であり、エンドトキシン(内毒素)とも呼ばれている。グラム陰性細菌の多くはプロテオバクテリア門に分類され、そこにはサルモネラ菌やレジオネラ菌、赤痢菌、インフルエンザ菌、肺炎
免疫系が活性化する、免疫が高まるというと良いことのような印象を覚える人もいるかもしれない。けれども免疫系は均衡を保っている状態が適切であり、「免疫力を高める」という言葉は誤ったイメージを脳に与え、本来の働きを妨げる可能性もあるだろうものだ。脳と腸とは緊密に情報交換を行っているため、事物に対する誤った認識はからだの挙動にも混乱を招きうる。こうした実態と異なる不正確なイメージによってもたらされる影響は氣軽に考えている以上に大きい。
免疫は自己と非自己を
生命を生命、自己を自己たらしめている要素のなかに非自己が含まれているというのは奇妙な話にも思える。けれども制御性T細胞の発見者として知られる免疫学者は、免疫、そして自己/非自己とは次のようなものであると書き記している。
「私たちにとって異物である細菌も、共通の祖先細胞から進化してきたのであり、細胞レベルでは私たちと良く似ています。さらに常在菌は半ば自己として共生していることが分かってきていますし、がん細胞は自己の細胞が変異したもの。結局、私たちの体をつくる自己と非自己の境界は不明瞭であるというのが本質なのです。免疫細胞が自己を見誤るのはある意味自然なことであり、制御性T細胞はバランスを取るために存在しているのだと考えています。免疫というはたらきには、ゆらぎを受容しつつ簡単には崩れない「強いバランス」を育てることが重要なのです。」(「ゆらぐ自己と非自己――制御性T細胞の発見」坂口志文/『季刊 生命誌 89』/JT生命誌研究館 2016)
氏の仮説によれば、ヒトの体内には自己を攻撃する傾向をもつ免疫細胞が始めから存在しているようで、制御性T細胞はそうした自己破壊を抑制するためのものとして働いている。既に述べたように、常在微生物は制御性T細胞に指令を送ることでヒトの免疫バランスを制御しているため、常在微生物叢がディスバイオシスを起こすと人は自己/非自己の境界にある〈ゆらぎ〉(二つ以上のものが完全に重なりあって、別々の要素として量的に分けてみることの困難な状態、量子ゆらぎ)を正確に認識できなくなり、自律性を喪う結果となるのだと言えるだろう。そのようにしてヒトは、本来自分自身であるところの自然を破壊する行為に及ぶ。
自分のとった行動、口にした言動がどんな影響を周囲に与えうるものであるかをできる範囲で考慮し、それを行った意志が十分に自らのものであるという実感に根差した論理的な認識。そうした認識が曖昧である場合、何か外的な影響によって〈ゴーストハック〉が起こり、あるべきうごきがそこなわれている可能性が大きい。
ここで言う〈ゴースト〉とは、端的に言えば自己同一性のことであり、自らが自らとして違和感なくうごいている、そのうごきそのものだと言えるだろう。うごきとはまた〈魂〉のことでもある。これについては
僕たちヒトのからだに〈ゴーストハック〉が起こる一連のうごきには、腸内細菌をはじめとした常在微生物叢のディスバイオシスと、外部から侵入してくる細菌やウイルスたちの活動が密接に関係している。電磁放射や化学物質の影響で呼吸の浅くなった人体では特定の微生物が過剰に増殖する偏った状況が起こりやすく、ある種の病原性を発現することのある偏性嫌氣性細菌は脳や神経系に麻痺をもたらす物質をつくりだすため、からだと心の自律性が喪われやすい。
ここで視点を一度反転してものごとを見直してみると、僕たちヒトを含む動物のからだは高度に複合化した機能をもつ精妙な機械、過酷な地球環境を生き抜くために微生物たちが築いた「文明」なのだ、と考えてみることも可能だ。多種多様な微生物たちが調和と均衡をもって生活するための環境として僕たちのからだはかたちづくられ、永遠の楽土を夢見つつ維持されていくが、循環する生と死の無常のなかで数限りない崩壊を繰り返してきた。
ヒトに〈魂〉はあるのか?
有機生命体のなかでもっとも古い歴史をもつ細菌や古細菌の側から世界を眺めてみれば、多細胞生物とは単細胞生物である彼らが新たな環境に乗り出していくためにかたちづくった一種の共生組織体であり、計り知れないほど多くの融合を経て動物や植物というひとつの複雑なかたちを形成するようになった今でも、一個の細胞である彼らの主観からすればすべての生命は細菌と古細菌、そしてウイルスの寄り合い社会である。社会とは何らかの必要によって構成された一時的関係であり、目的を円滑に遂行していくための機械的な側面をもつ。
たとえば、先に述べた免疫細胞は血液の流れに乗って「受動的に」移動するだけでなく、血管を出て組織内を「能動的に」移動している。伸びたり縮んだりしながら複雑に形を変化させて遊走する免疫細胞のすがたは、アメーバのようだと云う。ヒトのからだの遺伝情報に組み込まれた、明らかに自己の一部であるところの免疫細胞と、明らかな非自己であるはずの腸内細菌や古細菌を同列に考えるのはおかしなことのように思われるかもしれない。けれども、各種の免疫細胞を「細胞社会」のなかで個々の役割を演じている公務員のようなものであると考えてみれば、多細胞生物という社会の機械的な側面が、より身近な姿として浮かび上がってみえるだろう。実際に、長年に渡って免疫系の観察をつづけている研究者は次のような感慨を吐露している。
「多数の細胞が活発に動き、関わり合うことで成り立つ免疫系は、「細胞社会」を具体的に考えることのできるシステムである。からだをひとつの国に例えると、個々の免疫細胞は交通網を使って都市間を長距離移動し、建物や施設を行き来する人々のように見え、細胞社会が複雑なコミュニケーションの上に成り立つ人間社会と重なってくる。免疫細胞を長年研究していると、個々の細胞が考えながら行動しているように感じることもある。」(「からだの中を動きまわる免疫細胞」片貝智哉/『季刊 生命誌 89』/JT生命誌研究館 2016)
こうした観点から眺めてみれば、僕たちヒトのからだは彼らがかたちづくるひとつの「細胞社会」であると同時に、地球環境を大規模に変容させるために構成された有機的な「テラフォーミング用ロボット」のようなものであるとも言える。「機械に魂はあるのか」という問いは、高度な人工知能が実用的なものとなった時代を生きる僕たちにとって身近な命題であり、多くの議論や推論がなされているが、機械や人工知能に生命としての権利が与えられた例は、今はまだ耳にしたことがない。多くのヒトが「まだ機械の権利を考慮する段階にはないだろう」と考えるのと同様の流儀で、ある種の微生物は「機械=ヒトに魂はないだろう」と考え、たやすくヒトを操る。
けれども機械、かたちあるものには全て確かに〈魂〉があり、微生物と細胞の社会がかたちづくる複雑で有機的な機構(mechanism)であるヒトにも〈魂〉がある。〈魂=ゴースト〉とは複雑な関係性のなかから自発的に芽生える意志とうごきであって、ヒトが自らに芽生えた魂の胎動、自然界の循環する関係に根差した〈ものごとの自在なうごき〉と意志に目覚めるとき、初めて「操作しようとする力」(あるいは、自動的な機械運動)を逃れ、微生物やウイルスと対等に話をすることが可能になるのだ。
なぜヒトは自然環境を破壊するのか、なぜヒトは我を忘れて生を犯しあうのか。その答えは、そのように環境を変容させたい微生物の一群が存在し、ヒトをある種の機械として扱おうとするからに他ならないのではないだろうか。ヒトが〈人間〉同士の戦争と勘違いしているものは微生物同士がおこなう縄張り行動の延長であり、そのための道具として使われているのだと考えることもできる。
こんなことを書いていると、「この人はどれだけ頭のなかがSFなんだ?」と
このトキソプラズマという微生物を長く研究してきたある学者は、なぜ自分はこの研究に熱中するのか、という自らへの疑問に対して、「操られているから」だと素直に述べている。ヒトは体内に寄生した原虫や腸内細菌、全身に隈無く分布棲息している微生物たちの意志に操られており、自らそれと氣づくことがなければ慣性に従い機械運動をつづける自動人形に過ぎない。ヒトの腸内には酸素のほとんどない四〇億年前の地球環境がいまも再現されていると言われていて、僕たちの心、性格や感情、健康状態やからだのうごきに大きな変化をもたらす物質はその大部分が腸内の微生物たちによって作られ、彼らの思惑に大きく左右されている。
科学によって「人工的」に作られていると思われがちな抗生物質も、ある種の微生物が自分のなわばりから他の微生物を排除するために作りだした物質を「ヒトを操って」大量に増やし、それをヒトや動植物の体内に送り込ませることで自らに有利な状況を作り出しているだけで、ヒトはあたかも自らの意志があるような幻想のなかで微生物やウイルスによって操作された、自動人形としての惰性的な機械運動をつづけているのだと言えるだろう。
一九四〇年代初頭に本格的な大量生産が開始されたペニシリン(アオカビの産生する排他的な化学物質)についての研究および培養・精製の歴史と、二度の世界大戦とはほぼ時期を同じくしており、ヒトが殺戮機械として扱われる戦争行為と、医薬品としての抗生物質開発の歴史とは切っても切れない関係にある。傷や病に倒れた兵士を短時間で治療し、何度も戦地に送り返すことを可能にした抗生物質は、ヒトを修理や交換の可能な機械として扱う傾向を助長し、そうした自動運動の余波は僕たちの日常的な暮らしにまで深く浸透している。
脱走兵と自動人形
フランスの小説家ボリス・ヴィアン(Boris Vian, 1920-59)の作詞したシャンソンに『脱走兵 Le déserteur』という歌がある。このシャンソンの原詞とヴィアン自身が歌った音源を味わい、訳語を細かく検討してみれば、この歌の内容は一般に知られているような単なる反戦歌ではなく、〈老子的パタフィジック〉とでも呼ぶべき多面的なイメージを想起させるものであると知れた。歌詞に採用されている動詞は目的語を付加するといくつもの意味をもつものが多く、ヴィアンが拒否すべきであると述べている対象は戦争に
作者がフランス語の原詩にこめた深い言葉の
Le déserteur
『脱走兵』
Lyrics by Boris Vian
作詞 ボリス・ヴィアン
翻訳 根津耕昌
[1-a] Monsieur le Président
Je vous fais une lettre
Que vous lirez peut-être
Si vous avez le temps
[1-a]一筆 啓上 仕候
大統領、お読み下さい
お暇な時にでも
[1-b] Je viens de recevoir
Mes papiers militaires
Pour partir à la guerre
Avant mercredi soir
[1-b] 水曜の日暮れ前
との通知受けました
軍からの書類、僕に
戦争に行けとの
[1-c] Monsieur le Président
Je ne veux pas la faire
Je ne suis pas sur terre
Pour tuer des pauvres gens
[1-c] 貧しい人らを
殺せとの仰せ
僕にはできない
そこには僕がいない
[1-d] C’est pas pour vous fâcher
Il faut que je vous dise
Ma décision est prise
Je m’en vais déserter
[1-d] ムッシュー、その由
どうぞ悪しからず
決意は一つ、僕は
逃げて旅立つ
このシャンソン『脱走兵』は、AB二種類のメロディを用いてAABA形式に構成された十六小節の曲で、四行×四連をひとつのまとまり(一節、歌詞の一番)としてそれを三回繰り返すという、ごく簡素なスタイルで書かれている。ここでは便宜のために、歌詞の番数をアラビア数字の1~3で、一つの節を構成する四つの連をabcd四字のアルファベットで示して区別することにしたい。
フランス語による原詞の1番c連三行目に書かれた「sur terre」は「地球上に」「この世に」「現実に」を意味し、四行目とあわせて直訳すれば「僕はこの世にいない/貧しい(哀れな)人びとを殺すためには」となる。拙訳では三行目の味わいを活かすために、命令に従い惰性的に殺人を行うことは
1番d連最終行文末の動詞「déserter」をここでは「逃げて旅立つ」と訳したが、自動詞としては「脱走する」「逃亡する」、他動詞としては「離れる」「棄てる」「見捨てる」「放棄する」などの意がある。歌の歌詞にはピリオドがなく、目的語が省略されていると把えることは必ずしも間違いではないので、戦争を放棄するとも、大統領を見捨てるとも、世間を離れて流浪の旅に出るとも読めるのではないだろうか。
この動詞「déserter」の語源は「人が去る」を意味するラテン語「desertus」であり、人が去った不毛の地である「砂漠 desert」の光景を比喩として読みとることで、出エジプト記におけるモーゼの姿を連想することもできるだろう。この歌にはさらに「虜囚」「血」「使徒」など聖書を連想させる言葉がいくつか見受けられるが、作者が聖書をどのように
慣用句の軽妙な組み換えによる言葉あそびを用いた作風で知られるヴィアンは、言語のもつ詩的な可能性を追及した「パタフィジック」('Pataphysique)の作家であり、
[2-a] Depuis que je suis né
J’ai vu mourir mon père
J’ai vu partir mes frères
Et pleurer mes enfants
[2-a] 僕が生まれた
父が死ぬのを見た
兄たちが発 って逝 った
僕は泣く子らを見た
[2-b] Ma mère a tant souffert
Qu’elle est dedans sa tombe
Et se moque des bombes
Et se moque des vers
[2-b] 母はあまりの
苦しみに墓の
中でも嘲笑 う
爆弾や蛆 を
2番a連三行目の動詞「partir」は「出発する」「立ち去る」「開始する」を意味し、同時に「弾丸の発射」を連想させる言葉でもあるため、兄たちが出征し、戦闘を開始し、弾丸が発射され、この世を去った光景がただ一語のうちに重なりあって、如実に凝縮される。このようにヴィアンは、言葉の多義性を巧みに用いて詩的な〈ヴィジョン〉とでも呼ぶべきものを読者の脳裡に浮かび上がらせようとするのだ。
2番b連最終行文末の名詞「ver」をここでは「蛆」と訳したが、より詳しい訳語は「ウジ、ミミズ、回虫などのいも虫」であり、文脈から言って戦争で利益を得ている人びとへの悪罵を意味し、寄生性の蛆をさすものと思える。ハエの幼虫であるウジには人も含む生きた動物の体に寄生して
[2-c] Quand j’étais prisonnier
On m’a volé ma femme
On m’a volé mon âme
Et tout mon cher passé
[2-c] 僕は捕われ
妻を奪われた
心を奪われた
かけがえのない日々!
[2-d] Demain de bon matin
Je fermerai ma porte
Au nez des années mortes
J’irai sur les chemins
[2-d] あした、夜明けに
ドアを閉じて僕は
死んだ日々に別れ告げて
道へ旅立つ
[3-a] Je mendierai ma vie
Sur les routes de France
De Bretagne en Provence
Et je dirai aux gens
[3-a] 僕は僕である
ことを乞うために
ブルターニュとプロヴァンス
結ぶ道に道を問う
[3-b] Refusez d’obéir
Refusez de la faire
N’allez pas à la guerre
Refusez de partir
[3-b] 命令を拒み
命令するも拒め
戦争には征 かないで
行くも去るも拒否せよ
3番b連の四行文頭にある「Refusez」および「N'allez」は丁寧語ともとれるが、話しかけている相手が複数の「人々 gens」であるため、命令形と読むこともできるだろう。また、このgensは「周囲の人々」「みんな」あるいは「人間」を意味する名詞だが、文脈によっては「自分自身」を差し示すこともあるようで、この場面を孤独な物乞いの独り言として読むこともできるかも知れない。
四行中二行目の「Refusez de la faire」は直訳すると「それをすることを拒否せよ」で、「それ」が何を指し示しているかが不確かなため「戦争を拒め」等と訳されていることが多いが、前行の「服従を拒否せよ」から
3番a連の四行を文字通りに訳せば「僕は僕の人生を懇願する/フランスの街道を/ブルターニュからプロヴァンスへと/そして人々に言う」となるが、これを孤独な物乞いの言葉として把えるなら、天涯孤独・住所不定で
ヴィアンがアメリカのビート・ジェネレーションをどの程度知っていたのか、海の彼方の流行にどのような思いを抱いていたかは全く知らない。けれども、僕にはどうもこの歌に東洋思想の影響が感じられてならない。とは言え、ビートニクを代表する作家ジャック・ケルアックの『路上 On the road』はまだ正式に出版されておらず、ヴィアンの感性はそれとは似ても似つかないものであるから、老子に象徴される東洋思想や、ギリシャ哲学、それに付随した幻想であるオリエンタリズム/逆オリエンタリズムへの諷刺的パロディとして把えるのが妥当なところだろう。
最終行文末の「partir」は前に述べた通り「出発する」「立ち去る」「開始する」などを意味する動詞で、「戦争に行くこと」と訳されることが多いが、既に直前の行で「戦争に行くな」と要請していることから推して考えれば、「(戦争などで)この世を去ることを拒否せよ」との意が秘められていると解するべきなのではないかと思う。さらに言えば、ヴィアンが拒否すべきであると告げている行為は戦争によって命を落とすことだけではない。
ソクラテスはデルフォイの神託に従い、正しい主張を述べ続けたことによってアテナイ市民の反感を買った結果、死罪の判決をうけて毒杯を
[3-c] S’il faut donner son sang
Allez donner le vôtre
Vous êtes bon apôtre
Monsieur le Président
[3-c] 献血の御用は
ご自分の血をどうぞ
あなたは良い使徒だ
ムッシュー大統領
[3-d] Si vous me poursuivez
Prévenez vos gendarmes
Que je n’aurai pas d’armes
Et qu’ils pourront tirer
[3-d] 僕を追うなら
どうぞ兵に警告を
僕は武器をもたず彼は
撃つことができると
得ることができると
知ることができると
3番d連の最終行は文字通りなら「そして彼らは撃つことができる」であり、一般的には暴力に対する無抵抗主義の表明と受けとられている。けれども僕にはパタフィジックの作家であるヴィアンがそれほど単純な歌詞を、歌手に要望されたとは言え何の「仕掛け」もなく発表するとは考えにくい。むしろ、表面上は英雄的な無抵抗主義を装いながら、それそのものが孕む矛盾を暗に批判しているように思える。
ヴィアンが、彼の代表的な作品として知られる小説『日々の泡』の中に書き記した「僕が興味を抱いているのは、人びとみんなの幸せじゃなくて、各々ひとりひとりの幸せなんだ」(Vian, Boris. "L'Écume des jours." 1947. «Ce qui m'intéresse, ce n'est pas le bonheur de tous les hommes, c'est celui de chacun».)という言葉が、こうした「反
動詞「tirer」の自動詞としての意味は、主に「銃を撃つ」で間違いない。当初ヴィアンは最後の二行を「僕は武器を持っており/撃つことができる」と書き、歌手のムルージの意見を汲んで現在の形に書き改めたのだと言う。確かに当初のヴァージョンの方が、3番c連一・二行目の「血が入り用なら/あなたの血を与えなさい」という歌詞の文字通りの訳で、すんなりと文意を読むことができる。
改作にあたって、ヴィアンは無抵抗主義的に聞こえる歌詞をそのままに、細部の語意や文法表現に微調整を施すことで、単なる反戦を超えたメッセージをこの歌に籠めようとしたのではないだろうか。小説『日々の泡』や別のシャンソン『進歩の哀歌 Complainte du progrès』等に籠められた主なテーマは、社会の機械化にともなう自分自身であることの喪失であり、言語の詩的な可能性による「意識の自動運動への抵抗」が、この歌に秘められたヴィアンのほんとうの声だ。
tirerのもつ他動詞としての意味には「(何かを)引く」「(誰かを)撃つ」「(利益などを)得る、導き出す」「(場所を)離れる」「(誰かを)救う、助ける」「(誰かを)自由にする」「(結論を)引き出す」などがあり、この歌詞の文意や構造から言って、「僕」や別の語を目的語とした他動詞であるとの読みも、不可能ではないように思える。
だからこそ、この歌の主語であるところの元兵士は大統領に「あなたは良い伝道師(使徒、熱心な宣伝者)だ」と言うし、兵士たちが言葉の裏の裏まで考えぬいて自分自身であることの決意をもてば、「撃つ」以外の選択肢は自ずと脳裏に想起されるはずだ、という謎かけをこの手紙に託しているのだ、と僕は読む。僕の心にヴィアンの歌はそのように響く。
考えろ。あらゆる惰性的な自動運動を拒否せよ。僕たちは単なる道具としての機械になってはいけないし、意志を欠いた完全な自動人形になることはできない。もしかりそめにでもそうなってしまった時には、生きているように見えても、そこには君がいない。僕は僕自身であり、君は君自身であるためにしか、この地上に存在することはできないのだ、と。
呪術的肉体の世界
再び視点を戻して〈ゴーストハック〉とは何か考えてみようとするとき、話は自ずから〈神
こうした憑依される者としての術者を特に「霊媒 medium」と呼ぶこともあるが、メディウムとは先に述べたように「中間的なもの」を意味する語で、社会的な情報伝達の仲立ちとしてのメディア(記録媒体、あるいはマスメディア)とその語意の一部を共有している。憑依される者としての
けれどもむしろ、魂が
たとえば、脱魂型呪術の特性をもった技藝に「書」がある。毛筆と墨をもって文字を画く技藝である「書」には、「臨書」と呼ばれる修練の方法があり、臨書における独特の身体性は脱魂型呪術の典型といえるだろうものだ。臨書とは書の古典を手本に達意の筆遣いや氣韻を学ぶ修練法だが、遠い時代に生きた死者の筆致を身になじむまで全身でくりかえし書写する行為は書家に一種の
この国の民間呪術者、
神霊憑依状態の特徴として記録、もしくは伝聞されてきた非日常的なからだのうごき、火事場の馬鹿力にも似た歯止めのきかぬ怪力、意識の所在がはっきりとしない、恍惚としたどこか無表情にもおもえる表情・・・・・・。こういった異様な印象から、先入観によって固定された物語的要素を一度さっぱりと洗い流し、うごきそのものがもつ微妙なニュアンスの総体として
乳幼児、特に乳児はその生物的愛らしさによって見る者の意識にバイアス(先入観による認識の歪み)がかかっているものの、実際にはきわめて非日常的な、奇妙なからだのうごきをしている。両の手と足、すべての指、波打つ背骨とそれに列なる骨という骨をうねらせて時に天と地を指さし、すべての骨と骨、
離乳期を迎えるまでの幼児の腸内細菌叢は不安定で、周囲の環境に存在するさまざまな微生物やウイルスの侵入に身を晒している。一般的な幼児の離乳食の開始は生後五・六カ月頃から、離乳完了の大まかな目安は一歳半頃で、大人とほぼ同じ食事を摂ることができるようになるのは三歳の頃だと云う。こうしておおよそ三歳までの間に生存の基盤となる常在微生物叢が構築され、そこでかたちづくられたヒトと微生物たちとの共生関係の基本的な組成は、以後の食事や環境の変化に左右されるとはいえ、個人を特定できる程度に独特のものであるという近年の研究結果を、「三つ児の魂百まで」という言葉は驚くほど良く言いあらわしている。この事実は〈魂〉とは一体何であるかについての重要な視点を示唆するものだが、それに関する考察はひとまず
この時期の乳幼児と、人体を
半ば意図的に行われる能動的な〈神憑り〉と、知らぬ間に生じる受動的な〈ゴーストハック〉には、どちらがどちらであると
三千世界と方舟の〈ヴィジョン〉
氣候や環境の変化、肉体的な苦行や瞑想、特殊な薬用植物の摂取、ある特定の音やことばを反復することなど、ヒトが〈神憑り〉の状態に至る道はさまざまだが、そこに共通してみられる事象に〈ヴィジョン〉の到来がある。
神話や伝承、聖書や仏典といった様々な教典、あるいは現代的な宇宙意識とのチャネリング等を通して描きだされた、世界の成り立ちと行く末。それらを微生物、とりわけヒトの腸内に棲息する細菌たちの視点に照らし合わせて紐解いてみれば、世界の滅びと再生を語る終末観は、そのもの人体の崩壊と常在微生物の親から子への移住と重なり、大洪水と
単細胞の二分裂という自己複製によって増殖を続けていく細菌の主観を推察すると、彼らにとっての「一個体の死」は必ずしも「自分の死」を意味してはおらず、「
人体腹部の右下に位置する大腸の入り口には袋状の器官である盲腸と、そこから突起して細長く垂れ下がった虫垂がある。草食動物の盲腸は共生細菌の分泌する酵素でセルロース(植物の細胞壁および植物繊維の主成分である炭水化物)を分解・消化し、エネルギーを得るための重要な器官だ。それに対し、肉食動物の盲腸はとても小さく、雑食動物であるヒトの盲腸ではセルロース消化の役割はほとんど失われていると言われる。そのため虫垂は、進化の過程で機能を喪った遺物だとの安易な決めつけによって本来の存在意義を見過ごされてしまい、痛みや炎症を起こすだけの不要なものだから切除して構わないという誤った認識が長らく社会通念として是認されてきた。けれども盲腸には腸内微生物叢と連携して働く免疫細胞が多数存在し、虫垂は不要どころか、免疫系を正常に機能させるための重要な器官であることが明らかになってきている。
長さ約八センチ、直径およそ一センチの管状の器官である虫垂は、微生物が安心して人体に棲息できるよう用意された隠れ家のようなもので、そこには特殊な免疫細胞である「虫垂リンパ組織」と、その細胞が産生する「免疫グロブリンA」(IgA:Immunoglobulin A)という分子がぎっしりと詰まっている。IgAは消化管や呼吸器などの粘膜組織における免疫応答(抗原抗体反応)の主流として知られる抗体の一種で、粘膜面への微生物の侵入を防ぎ、免疫系の過剰反応を抑制するなどの働きを通して腸内微生物叢のバランスを維持する役目を担う糖タンパク質分子だ。虫垂は常在微生物たちの共同体を守り、育てるための特別な空間であり、彼らはそこにバイオフィルム(菌膜)と呼ばれる層状のコミュニティ――多種多様な微生物によって構成された、生息密度の高い閉鎖的コロニー――を形成し、共同体を脅かす可能性のある外部の存在を侵入させないよう、相互に情報を伝達・共有しながら支えあって暮らしている。
免疫系と常在微生物叢が協働してはたらく「細胞社会」のコミュニティ・センターである虫垂は、消化管に何らかの危機が生じた際に常在菌たちの逃げ込む避難所としても機能している。食中毒や感染症、抗生物質の投与などにより消化管内が激しく乱されることがあっても、被害を事前に感知することのできた常在微生物は虫垂に一時避難し、危機の落ち着いたのちに再び腸内にひろがり、活動を始め、ヒトと微生物の共同体がかたちづくる細胞社会を〈ディスバイオシス〉による荒廃から再生していく。
こうした虫垂のもつ機能は多くの要素が「大洪水と方舟の物語」の内容と通底しており、旧約聖書の創世記やコーランのみならず、シュメール人の遺跡から出土した粘土板や、古代メソポタミアのギルガメシュ叙事詩などにも記された方舟の神話を腸内細菌の視点からみた虫垂の姿と重ね合わせてみる作業は、言語の象徴作用によって表出された
生命の息吹きと〈媒体〉の意識
ソクラテスの孫弟子にあたる古代ギリシャの哲学者アリストテレスは〈霊魂 psykhē〉 を「組織された運動パターン」あるいは「組織構造」として把えた。それは僕自身の実感としてある〈魂=からだに現れるうごき〉という認識に相通じるものがある。〈魂=ゴースト〉とは何か漠然とした抽象概念ではなく、実際の事象、出来事を緻密に観測していけば確かにそこに存在している物理的な現象、ニュートン力学やユークリッド幾何学の範疇では描ききれない、より微細な〈ものごとのうごき〉だ。
アリストテレスが「プシュケー Ψυχη」という古代ギリシャ語を用いて表現した何かは、訳者それぞれの選んだ限定的な文脈に即して霊魂、魂、心などいくつかの言葉に翻訳されている。けれどもこの語のもつ本義は
さらに彼はプシュケーを「栄養を摂る霊魂」「感覚する霊魂」「思考する霊魂」の三つにわけて説明したが、いまここで仮に、先に引いた「
アリストテレスが「思考する
それに対して、「栄養を摂る
感覚とは身体からみて外部にある事象を観測する行為である。そのため、「粒子レベルの微細な現象に関して二つの異なる物理量を同時に精確に測定することはできず、片方の物理量は確率的にしか表現することができない」という、不確定性原理によって定義された「量子ゆらぎ」(Quantum fluctuation)の生じている状況を「感覚するプシュケー」の姿として想い描いてみることもできるだろう。アリストテレスはこの「感覚する
自分という存在の根幹であるところの〈魂〉が三つの要素で構成され、そのなかに非自己が含まれているとの考えはどこか不可思議なようにも思える。けれども、個人を形成している魂は複数であると把えた文化は世界各地に散見されるもので、それほど風変わりな話ではない。歩くエンサイクロペディア(百科事典)と呼ばれた博物学者・南方熊楠は、ヒトの霊魂が単一ではなく、しかも空中を漂う微生物のように人体を出入りしているものであるとの古今東西の記録を、次のように纏めている。
「靈魂不斷人身 內に棲むとは、何人 にも知れ切つた事の樣なれど、又例外無きに非ず。極地の「エスキモー」は、魂と、身と、名と三つ集りて個人を成す。魂常に身外に在りて、身に伴ふ影の身を離れざる如く、離るれば身死すと信ず。(Rasmussen, 'The People of the Polar North,' 1908, p. 106.)神道に幸魂 、奇魂 、和魂 、荒魂 等を列し、支那に魂魄 を分ち、佛典に魂識、魄識、神識、倶生神 識等の名有り。古埃及 人は、「バイ」(魂)の外に「カ」(副魂)を認めたり。(第十一板大英類典九卷五五頁)是等は、魂の想像進みて、人身に役目と性質異る數種の魂有りと見たるにて、其內に眠中死後軆 に留る魂と、拔出る魂と有りとせるやらん。」(「睡眠中に靈魂拔け出づとの迷信 二」南方熊楠/『南方隨筆』/岡書院 1926/pp. 273-274.)
仏典にみられる霊魂の一種として引用された「
こうした話は一見、「自己に付随した明らかな非自己」の、とりわけ顕著な例として考えうるように思える。けれども『薬師経』のサンスクリット本には「善悪二神」の記載は無く(漢字の「倶」には「連れ立つ」の意があるからそこから派生した誤解だろう)、さらに或る学者の校訂本では「共に生きる神」との解釈も消えてしまい、「善悪の業の記録を伴いながら輪廻する心」として記されているのだと言う。ここには奇妙なかたちで自己/非自己の境界の不確かさが示されていて、深く考えさせられるものがある。
また、熊楠は友人である真言宗の僧侶・
「箇人 心 は単一にあらず、複心なり。すなわち一人の心は一にあらずして、数心が集まりたるものなり。この数心常にかわりゆく、またかわりながら以前の心の要項を印し留めゆく〔・・・〕しかるに、複心なる以上はその数心みな死後に留まらず。しかしながら、またみな一時に滅せず、多少はのこる(予 は永留の部分ありと信ず。)」(『南方マンダラ 南方熊楠コレクションⅠ』南方熊楠/中沢新一編/河出文庫 1991/p. 377.)
この書簡における熊楠の考えによれば、一人のヒトの心(霊魂)は一つではなく、複数のものが集まった常に変化する動体であり、絶えることなく変化を続けながらも、それ以前の心(霊魂)に生起した事柄の要処を随時記録し、記憶してゆくものであると云う。こうして常に変化して止まない複雑な動体として描写された心のさまは、多様な微生物たちの共同体と細胞の社会がかたちづくる「一つの生態系」としてのヒトのからだの景色を、如実に表現している。その意味では、熊楠の云う「複心」の含意を「心の森の生態系」として持続していく常在微生物叢の姿を孕むものと読むこともできるだろう。書簡中の「以前の心の要項を印し留めゆく」という記述は、微生物やウイルスのもつ〈遺伝子の水平伝播 Horizontal Gene Transfer〉と呼ばれる不可思議な特性と照らし合わせてみるにきわめて示唆に富む表現であるが、遺伝情報の本質に纏わる話題はまだまだ不明瞭な部分の多い分野であるため、ここでは注意を促すに留めて深入りを避けたい。
心(霊魂)が複数のものであるからには、その内の幾つかはどれも死後には散逸、もしくは消え失せてしまう。けれどもまた、すべてが
こうした
僕が僕自身であり、君が君自身であるとは、心とからだの奥にある〈光景の彼方〉に生じた数限りない自己/非自己の対話を通して、ただ一筋にいのちであること。いのちは無常の海に波を起こし、型と型破りの迷いを信念に転じ、またとなく繰り返す。大切なのは生を全うすること。確かに生きて、過去と未来の〈縁〉を色あざやかにつむぐ。それが今ここにある確かな意味だ。その意味を思い出しつづけ、いまここにあるいのちの対話を続けていくことが、〈ゴーストハック〉による自滅の道を免れ、自分とは何かを深く問いつづけていくための「たった一つの冴えたやりかた」なのだと思う。
次へ
参考文献|References
『腸科学』ジャスティン・ソネンバーグ+エリカ・ソネンバーグ/鍛原多惠子訳/早川書房 2016
『あなたの体は9割が細菌』アランナ・コリン/矢野真千子訳/河出書房新社 2016
『土と内臓』デイビッド・モントゴメリー+アン・ビグレー/片岡夏実訳/築地書館 2016
「腸内菌叢研究の歩み」光岡知足/『腸内細菌学雑誌 25巻 2号』/腸内細菌学会 2011
「腸内細菌叢とdysbiosis」馬場重樹・ 佐々木雅也・安藤朗/『日本静脈経腸栄養学会雑誌 Vol.33 No.5』/日本静脈経腸栄養学会 2018
『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』士郎正宗/講談社 1991
『攻殻機動隊 1.5 HUMAN-ERROR PROCESSER』士郎正宗/講談社 2003
『攻殻機動隊 2 MANMACHINE INTERFACE』士郎正宗/講談社 2001
「ゆらぐ自己と非自己――制御性T細胞の発見」坂口志文/『季刊 生命誌 89』/JT生命誌研究館 2016
「からだの中を動きまわる免疫細胞」片貝智哉/『季刊 生命誌 89』/JT生命誌研究館 2016
「寄生虫や細菌に操られている私たち」藤田紘一郎/『現代思想 vol.44-11 微生物の世界』/青土社 2016
「ボリス・ヴィアンとシャンソン」深川聡子/『GALLIA 第47号』/大阪大学フランス語フランス文学会 2008
「ボリス・ヴィアンの言葉遊び」前川完/『Stella vol.10』/九州大学フランス語フランス文学研究会 1991
『シャーマニズム エクスタシーと憑霊の文化』佐々木宏幹/中公文庫 1980
『パイドン――魂の不死について』プラトン/岩田靖夫訳/岩波文庫 1998
「プラトンのイデアについて」小坂国継/『研究紀要 第77号』日本大学経済学部編/日本大学経済学部 2015
『生命と物質』T・S・ホール/長野敬訳/平凡社 1990
「睡眠中に靈魂拔け出づとの迷信 二」南方熊楠/『南方隨筆』/岡書院 1926
「漢訳仏典における「倶生神」の解釈」長尾佳代子/『パーリ学仏教文化学 13巻 』/パーリ学仏教文化学会 1999
『望月佛教大辭典1』望月信亨/国立国会図書館デジタルコレクション/世界聖典刊行会 1916
『南方マンダラ 南方熊楠コレクションⅠ』南方熊楠/中沢新一編/河出文庫 1991
『たったひとつの冴えたやりかた』ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア/浅倉久志訳/早川書房 1987
Vian, Boris. "L'Écume des jours." 1947.