Homo rehabilis【8】微生物主観と三千世界


 僕たちヒトは本来自然そのものであり、天地にあまねく存在する動植物、微生物たち、有機物、無機物のかたちづくる生態系の複雑な相互関係を更新しつづけるという役目を自ら担っている。そのような立場を選び、多様な存在同士の関係性に対して開かれているヒトのからだは、必然として一種の〈媒体〉としてはたらく機能をもつため、常に様々なモノの介入に自らをさらしている。
 ここに言う〈媒体〉とは英語の「medium」もしくは「vehicle」の訳語で、前者は「中間的なもの」、後者は「乗り物」を意味する言葉だ。ヒトにはその語があらわしているところの機能があり、自分自身や身のまわりの誰かが不安や雑言、負の連鎖の種となるようなことばを口にするとき、よく氣をつけて聴きわけてみればそれはそのヒト自身がもつ本来の声、うごきではない。


  〈ゴーストハック〉と微生物



 日常の様々な瞬間に見られるこういった現象、一見して氣づかぬほど微妙な具合にヒトが自律性を喪い、何者かに操られている状態をここでは仮に〈ゴーストハック〉と呼ぶことにしたい。この語は漫画『攻殻機動隊 Ghost in the Shell』(士郎正宗/講談社 1991)からの流用であり、作中において生命を生命、個人を個人たらしめている要素である〈ゴースト〉が、何らかの影響でその自律性を喪うことを意味する。
 僕がごく日常的な範囲で眼にしたことのある例としては、工業的に合成もしくは精製された甘味料や添加物などを摂取した子どもが自律性を喪い、単なる我儘で片付けるには不可解な行動をとり、一種のコミュニケーション不全に陥る場面がまず挙げられるだろう。母親がどれだけ丁寧に話しかけても、なぜだか蜘蛛の巣に蜜柑の皮を投げ続ける子ども・・・・・・。母親は営巣中の蜘蛛のいのちや営みについて出来るだけ親身に、人間本位な論理の強要といった要素をなるべく排しながら語りかけているが、合成甘味料を摂取した子どもは不思議な無表情を湛えて蜘蛛の巣に蜜柑の皮を投げつづける。そこには本来あるはずの対話の余地がない。
 もちろん、合成甘味料や食品添加物を摂取した全ての子どもがこの状態に陥るわけではなく、この光景はとてもわかりやすい例だ。実際には、外面上は何ら変わった点もなく常識の範囲で自発的に行動しているように見えるヒトの多くが、本質的な意味での自律性を喪失し、道義的に矛盾した行為をおこなっている。僕自身の体験としては、長らく合成甘味料を口にしておらず、ある時それと知らぬ間に食べてしまったことがあり、その直後はなぜか意志と行動が矛盾して携帯用電池を無為にショートさせ破壊してしまう行為に及んでいた。
 合成甘味料や乳化剤などに代表される食品添加物は、ヒトのからだの粘膜透過性を上昇させ、リポ多糖(LPS:lipopolysaccharide)やさまざまな有害物質の体内への侵入を助長するとともに、消化管粘膜の防御機構である粘液層を変化させる等の影響を通じて〈ディスバイオシス〉(常在菌の多様性喪失と、それにともなう相互作用の不調和)を惹き起こすものと考えられている。リポ多糖はヒトの脂肪細胞を炎症により肥大化させ、数少ない細胞に多量の脂肪が詰めこまれてしまう機能障害を引き起こしているのではないかとも推察されている。いわゆる「肥満」と呼ばれている症状は、単に脂肪の量が多いのではなく、全身の細胞が炎症を起こし肥大化しているというのが正確な認識のようだ。太った人の脂肪細胞には免疫細胞がぎっしり集まっていて、まるで感染症と戦っているように見えるのだと云う。
 リポ多糖とは「グラム陰性細菌」(グラム染色という化学処理の結果、紫色に染まらず赤く見える細菌)の外膜の構成成分であり、エンドトキシン(内毒素)とも呼ばれている。グラム陰性細菌の多くはプロテオバクテリア門に分類され、そこにはサルモネラ菌やレジオネラ菌、赤痢菌、インフルエンザ菌、肺炎かん菌、緑膿菌、ごく一部の大腸菌など病原性を発現する細菌が含まれているため、こうした細菌の死骸の一部であるリポ多糖が粘膜をすり抜けて体内に侵入すると、生きた細菌が活動していない状況であってもからだは免疫系の働きを過剰に活性化させる。
 免疫系が活性化する、免疫が高まるというと良いことのような印象を覚える人もいるかもしれない。けれども免疫系は均衡を保っている状態が適切であり、「免疫力を高める」という言葉は誤ったイメージを脳に与え、本来の働きを妨げる可能性もあるだろうものだ。脳と腸とは緊密に情報交換を行っているため、事物に対する誤った認識はからだの挙動にも混乱を招きうる。こうした実態と異なる不正確なイメージによってもたらされる影響は氣軽に考えている以上に大きい。
 免疫は自己と非自己をけるものとされてきたが、ヒトのからだを生命として機能させるために必要な要素には明らかに非自己であるはずの微生物が含まれていて、腸内に棲息する常在菌は炎症抑制の役目をになう「制御性T細胞」(Regulatory T cell/Treg)に指令を送ることで抑制系の免疫細胞の数を操作し、自分たちが人体から排除されることのないよう働きかけをつづけている。常在菌のこうした活動により、免疫系は必要以上に活性化することを免れ、人体は自己免疫不全に陥らずに済んでいるのだと云う。「T細胞」(T cell/T lymphocyte)とは胸腺(Thymus)で成熟するリンパ球のことで、制御性T細胞の他にキラーT細胞やヘルパーT細胞などがある。
 生命を生命、自己を自己たらしめている要素のなかに非自己が含まれているというのは奇妙な話にも思える。けれども制御性T細胞の発見者として知られる免疫学者は、免疫、そして自己/非自己とは次のようなものであると書き記している。

「私たちにとって異物である細菌も、共通の祖先細胞から進化してきたのであり、細胞レベルでは私たちと良く似ています。さらに常在菌は半ば自己として共生していることが分かってきていますし、がん細胞は自己の細胞が変異したもの。結局、私たちの体をつくる自己と非自己の境界は不明瞭であるというのが本質なのです。免疫細胞が自己を見誤るのはある意味自然なことであり、制御性T細胞はバランスを取るために存在しているのだと考えています。免疫というはたらきには、ゆらぎを受容しつつ簡単には崩れない「強いバランス」を育てることが重要なのです。」(「ゆらぐ自己と非自己――制御性T細胞の発見」坂口志文/『季刊 生命誌 89』/JT生命誌研究館 2016)

 氏の仮説によれば、ヒトの体内には自己を攻撃する傾向をもつ免疫細胞が始めから存在しているようで、制御性T細胞はそうした自己破壊を抑制するためのものとして働いている。既に述べたように、常在微生物は制御性T細胞に指令を送ることでヒトの免疫バランスを制御しているため、常在微生物叢がディスバイオシスを起こすと人は自己/非自己の境界にある〈ゆらぎ〉(二つ以上のものが完全に重なりあって、別々の要素として量的に分けてみることの困難な状態、量子ゆらぎ)を正確に認識できなくなり、自律性を喪う結果となるのだと言えるだろう。そのようにしてヒトは、本来自分自身であるところの自然を破壊する行為に及ぶ。
 自分のとった行動、口にした言動がどんな影響を周囲に与えうるものであるかをできる範囲で考慮し、それを行った意志が十分に自らのものであるという実感に根差した論理的な認識。そうした認識が曖昧である場合、何か外的な影響によって〈ゴーストハック〉が起こり、あるべきうごきがそこなわれている可能性が大きい。
 ここで言う〈ゴースト〉とは、端的に言えば自己同一性のことであり、自らが自らとして違和感なくうごいている、そのうごきそのものだと言えるだろう。うごきとはまた〈魂〉のことでもある。これについてはのちに考察しよう。そうしたうごき、〈魂〉の自在なはたらきを妨げる媒介として顕著なものが、合成甘味料などの添加物、微生物が産生する排他的な分泌物である抗生物質、精白された砂糖や旨味調味料をふくむ純度の高い化学物質、電磁波や放射線といった電磁放射だ。もちろん、ヒトそれぞれがもつからだと心の成り立ちによってその影響の幅は広く、計り知れない。
 僕たちヒトのからだに〈ゴーストハック〉が起こる一連のうごきには、腸内細菌をはじめとした常在微生物叢のディスバイオシスと、外部から侵入してくる細菌やウイルスたちの活動が密接に関係している。電磁放射や化学物質の影響で呼吸の浅くなった人体では特定の微生物が過剰に増殖する偏った状況が起こりやすく、ある種の病原性を発現することのある偏性嫌氣性細菌は脳や神経系に麻痺をもたらす物質をつくりだすため、からだと心の自律性が喪われやすい。
 ここで視点を一度反転してものごとを見直してみると、僕たちヒトを含む動物のからだは高度に複合化した機能をもつ精妙な機械、過酷な地球環境を生き抜くために微生物たちが築いた「文明」なのだ、と考えてみることも可能だ。多種多様な微生物たちが調和と均衡をもって生活するための環境として僕たちのからだはかたちづくられ、永遠の楽土を夢見つつ維持されていくが、循環する生と死の無常のなかで数限りない崩壊を繰り返してきた。


  ヒトに〈魂〉はあるのか?



 有機生命体のなかでもっとも古い歴史をもつ細菌や古細菌の側から世界を眺めてみれば、多細胞生物とは単細胞生物である彼らが新たな環境に乗り出していくためにかたちづくった一種の共生組織体であり、計り知れないほど多くの融合を経て動物や植物というひとつの複雑なかたちを形成するようになった今でも、一個の細胞である彼らの主観からすればすべての生命は細菌と古細菌、そしてウイルスの寄り合い社会である。社会とは何らかの必要によって構成された一時的関係であり、目的を円滑に遂行していくための機械的な側面をもつ。
 たとえば、先に述べた免疫細胞は血液の流れに乗って「受動的に」移動するだけでなく、血管を出て組織内を「能動的に」移動している。伸びたり縮んだりしながら複雑に形を変化させて遊走する免疫細胞のすがたは、アメーバのようだと云う。ヒトのからだの遺伝情報に組み込まれた、明らかに自己の一部であるところの免疫細胞と、明らかな非自己であるはずの腸内細菌や古細菌を同列に考えるのはおかしなことのように思われるかもしれない。けれども、各種の免疫細胞を「細胞社会」のなかで個々の役割を演じている公務員のようなものであると考えてみれば、多細胞生物という社会の機械的な側面が、より身近な姿として浮かび上がってみえるだろう。実際に、長年に渡って免疫系の観察をつづけている研究者は次のような感慨を吐露している。

「多数の細胞が活発に動き、関わり合うことで成り立つ免疫系は、「細胞社会」を具体的に考えることのできるシステムである。からだをひとつの国に例えると、個々の免疫細胞は交通網を使って都市間を長距離移動し、建物や施設を行き来する人々のように見え、細胞社会が複雑なコミュニケーションの上に成り立つ人間社会と重なってくる。免疫細胞を長年研究していると、個々の細胞が考えながら行動しているように感じることもある。」(「からだの中を動きまわる免疫細胞」片貝智哉/『季刊 生命誌 89』/JT生命誌研究館 2016)

 こうした観点から眺めてみれば、僕たちヒトのからだは彼らがかたちづくるひとつの「細胞社会」であると同時に、地球環境を大規模に変容させるために構成された有機的な「テラフォーミング用ロボット」のようなものであるとも言える。「機械に魂はあるのか」という問いは、高度な人工知能が実用的なものとなった時代を生きる僕たちにとって身近な命題であり、多くの議論や推論がなされているが、機械や人工知能に生命としての権利が与えられた例は、今はまだ耳にしたことがない。多くのヒトが「まだ機械の権利を考慮する段階にはないだろう」と考えるのと同様の流儀で、ある種の微生物は「機械=ヒトに魂はないだろう」と考え、たやすくヒトを操る。
 けれども機械、かたちあるものには全て確かに〈魂〉があり、微生物と細胞の社会がかたちづくる複雑で有機的な機構(mechanism)であるヒトにも〈魂〉がある。〈魂=ゴースト〉とは複雑な関係性のなかから自発的に芽生える意志とうごきであって、ヒトが自らに芽生えた魂の胎動、自然界の循環する関係に根差した〈ものごとの自在なうごき〉と意志に目覚めるとき、初めて「操作しようとする力」(あるいは、自動的な機械運動)を逃れ、微生物やウイルスと対等に話をすることが可能になるのだ。
 なぜヒトは自然環境を破壊するのか、なぜヒトは我を忘れて生を犯しあうのか。その答えは、そのように環境を変容させたい微生物の一群が存在し、ヒトをある種の機械として扱おうとするからに他ならないのではないだろうか。ヒトが〈人間〉同士の戦争と勘違いしているものは微生物同士がおこなう縄張り行動の延長であり、そのための道具として使われているのだと考えることもできる。
 こんなことを書いていると、「この人はどれだけ頭のなかがSFなんだ?」といぶかしがられそうだが、ヒトの性格や行動が身の周りに存在する微生物たちの利害に左右されている事実は、最新の研究でも確かめられている。たとえば、脳に寄生する微生物の一種にトキソプラズマ(Toxoplasma gondii)という原虫がいる。この原虫に寄生された鼠はなぜか自ら天敵の猫に接近し、同じ原虫に寄生されたヒトの男性は内向的で疑い深く、ルールを守らなくなる傾向があり、女性は外交的で人を疑わず、従順になる傾向があることが観察された。
 このトキソプラズマという微生物を長く研究してきたある学者は、なぜ自分はこの研究に熱中するのか、という自らへの疑問に対して、「操られているから」だと素直に述べている。ヒトは体内に寄生した原虫や腸内細菌、全身に隈無く分布棲息している微生物たちの意志に操られており、自らそれと氣づくことがなければ慣性に従い機械運動をつづける自動人形に過ぎない。ヒトの腸内には酸素のほとんどない四〇億年前の地球環境がいまも再現されていると言われていて、僕たちの心、性格や感情、健康状態やからだのうごきに大きな変化をもたらす物質はその大部分が腸内の微生物たちによって作られ、彼らの思惑に大きく左右されている。
 科学によって「人工的」に作られていると思われがちな抗生物質も、ある種の微生物が自分のなわばりから他の微生物を排除するために作りだした物質を「ヒトを操って」大量に増やし、それをヒトや動植物の体内に送り込ませることで自らに有利な状況を作り出しているだけで、ヒトはあたかも自らの意志があるような幻想のなかで微生物やウイルスによって操作された、自動人形としての惰性的な機械運動をつづけているのだと言えるだろう。
 一九四〇年代初頭に本格的な大量生産が開始されたペニシリン(アオカビの産生する排他的な化学物質)についての研究および培養・精製の歴史と、二度の世界大戦とはほぼ時期を同じくしており、ヒトが殺戮機械として扱われる戦争行為と、医薬品としての抗生物質開発の歴史とは切っても切れない関係にある。傷や病に倒れた兵士を短時間で治療し、何度も戦地に送り返すことを可能にした抗生物質は、ヒトを修理や交換の可能な機械として扱う傾向を助長し、そうした自動運動の余波は僕たちの日常的な暮らしにまで深く浸透している。


  脱走兵と自動人形



 フランスの小説家ボリス・ヴィアン(Boris Vian, 1920-59)の作詞したシャンソンに『脱走兵 Le déserteur』という歌がある。このシャンソンの原詞とヴィアン自身が歌った音源を味わい、訳語を細かく検討してみれば、この歌の内容は一般に知られているような単なる反戦歌ではなく、〈老子的パタフィジック〉とでも呼ぶべき多面的なイメージを想起させるものであると知れた。歌詞に採用されている動詞は目的語を付加するといくつもの意味をもつものが多く、ヴィアンが拒否すべきであると述べている対象は戦争にくことや貧しい人びとを殺めることだけではない。
 作者がフランス語の原詩にこめた深い言葉のあやを通して仄めかそうとしているものは、人の心を蝕むあらゆる機械的な自動運動への「ノン」であり、自分がほんとうに自分自身であるために、物事を裏の裏まで見通し、深く考え、決意をもって適切な判断を行う必要がある、とのメッセージを僕はこの歌に感じる。ここでは手短に、日本語への翻訳による歌詞の解読を通して、僕自身の意見を述べてみることにしよう。

   Le déserteur
   『脱走兵』

   Lyrics by Boris Vian
   作詞 ボリス・ヴィアン
   翻訳 根津耕昌

 [1-a] Monsieur le Président
   Je vous fais une lettre
   Que vous lirez peut-être
   Si vous avez le temps

 [1-a] 一筆いっぴつ啓上けいじょう仕候 つかまつりそろ
   大統領、お読み下さい
   お暇な時にでも

 [1-b] Je viens de recevoir
   Mes papiers militaires
   Pour partir à la guerre
   Avant mercredi soir

 [1-b] 水曜の日暮れ前
   との通知受けました
   軍からの書類、僕に
   戦争に行けとの

 [1-c] Monsieur le Président
   Je ne veux pas la faire
   Je ne suis pas sur terre
   Pour tuer des pauvres gens

 [1-c] 貧しい人らを
   殺せとの仰せ
   僕にはできない
   そこには僕がいない

 [1-d] C’est pas pour vous fâcher
   Il faut que je vous dise
   Ma décision est prise
   Je m’en vais déserter

 [1-d] ムッシュー、そのよし
   どうぞ悪しからず
   決意は一つ、僕は
   逃げて旅立つ

 このシャンソン『脱走兵』は、AB二種類のメロディを用いてAABA形式に構成された十六小節の曲で、四行×四連をひとつのまとまり(一節、歌詞の一番)としてそれを三回繰り返すという、ごく簡素なスタイルで書かれている。ここでは便宜のために、歌詞の番数をアラビア数字の1~3で、一つの節を構成する四つの連をabcd四字のアルファベットで示して区別することにしたい。
 フランス語による原詞の1番c連三行目に書かれた「sur terre」は「地球上に」「この世に」「現実に」を意味し、四行目とあわせて直訳すれば「僕はこの世にいない/貧しい(哀れな)人びとを殺すためには」となる。拙訳では三行目の味わいを活かすために、命令に従い惰性的に殺人を行うことは僕自身には・・・・・できないし、それをしてしまっては僕がこの世に/地球上に/現実に存在することができない、という哲学的命題を含むものと解して「そこには僕がいない」とした。
 1番d連最終行文末の動詞「déserter」をここでは「逃げて旅立つ」と訳したが、自動詞としては「脱走する」「逃亡する」、他動詞としては「離れる」「棄てる」「見捨てる」「放棄する」などの意がある。歌の歌詞にはピリオドがなく、目的語が省略されていると把えることは必ずしも間違いではないので、戦争を放棄するとも、大統領を見捨てるとも、世間を離れて流浪の旅に出るとも読めるのではないだろうか。
 この動詞「déserter」の語源は「人が去る」を意味するラテン語「desertus」であり、人が去った不毛の地である「砂漠 desert」の光景を比喩として読みとることで、出エジプト記におけるモーゼの姿を連想することもできるだろう。この歌にはさらに「虜囚」「血」「使徒」など聖書を連想させる言葉がいくつか見受けられるが、作者が聖書をどのようにとらえていたかについては検証を要する。
 慣用句の軽妙な組み換えによる言葉あそびを用いた作風で知られるヴィアンは、言語のもつ詩的な可能性を追及した「パタフィジック」('Pataphysique)の作家であり、形而上学メタフィジック(Métaphysique)的なロゴス(論証するための言語)による論理を超えたところにある、実感の領域におけるミュトス(いわば、神話論理)を、言葉の多義性と象徴作用を用いて暗喩的に表現しようとした作品が多く、この詩にも聖書などのパロディを通して、意識の惰性運動により生じた固定観念を〈ゆらぎ〉の相へと還元しようという形而超的パタフィジックな意図が多分に感じられる。

 [2-a] Depuis que je suis né
   J’ai vu mourir mon père
   J’ai vu partir mes frères
   Et pleurer mes enfants

 [2-a] 僕が生まれた
   父が死ぬのを見た
   兄たちがってった
   僕は泣く子らを見た

 [2-b] Ma mère a tant souffert
   Qu’elle est dedans sa tombe
   Et se moque des bombes
   Et se moque des vers

 [2-b] 母はあまりの
   苦しみに墓の
   中でも嘲笑あざわら
   爆弾やウジ

 2番a連三行目の動詞「partir」は「出発する」「立ち去る」「開始する」を意味し、同時に「弾丸の発射」を連想させる言葉でもあるため、兄たちが出征し、戦闘を開始し、弾丸が発射され、この世を去った光景がただ一語のうちに重なりあって、如実に凝縮される。このようにヴィアンは、言葉の多義性を巧みに用いて詩的な〈ヴィジョン〉とでも呼ぶべきものを読者の脳裡に浮かび上がらせようとするのだ。
 2番b連最終行文末の名詞「ver」をここでは「蛆」と訳したが、より詳しい訳語は「ウジ、ミミズ、回虫などのいも虫」であり、文脈から言って戦争で利益を得ている人びとへの悪罵を意味し、寄生性の蛆をさすものと思える。ハエの幼虫であるウジには人も含む生きた動物の体に寄生して蝿蛆ようそ症をひきおこす種類があり、ここでは死肉を分解する蛆というよりも、生者を死においやる寄生虫としての蛆をイメージするほうがふさわしいだろう。

 [2-c] Quand j’étais prisonnier
   On m’a volé ma femme
   On m’a volé mon âme
   Et tout mon cher passé

 [2-c] 僕は捕われ
   妻を奪われた
   心を奪われた
   かけがえのない日々!

 [2-d] Demain de bon matin
   Je fermerai ma porte
   Au nez des années mortes
   J’irai sur les chemins

 [2-d] あした、夜明けに
   ドアを閉じて僕は
   死んだ日々に別れ告げて
   道へ旅立つ

 [3-a] Je mendierai ma vie
   Sur les routes de France
   De Bretagne en Provence
   Et je dirai aux gens

 [3-a] 僕は僕である
   ことを乞うために
   ブルターニュとプロヴァンス
   結ぶ道に道を問う

 [3-b] Refusez d’obéir
   Refusez de la faire
   N’allez pas à la guerre
   Refusez de partir

 [3-b] 命令を拒み
   命令するも拒め
   戦争にはかないで
   行くも去るも拒否せよ

 3番b連の四行文頭にある「Refusez」および「N'allez」は丁寧語ともとれるが、話しかけている相手が複数の「人々 gens」であるため、命令形と読むこともできるだろう。また、このgensは「周囲の人々」「みんな」あるいは「人間」を意味する名詞だが、文脈によっては「自分自身」を差し示すこともあるようで、この場面を孤独な物乞いの独り言として読むこともできるかも知れない。
 四行中二行目の「Refusez de la faire」は直訳すると「それをすることを拒否せよ」で、「それ」が何を指し示しているかが不確かなため「戦争を拒め」等と訳されていることが多いが、前行の「服従を拒否せよ」からして「Refusez de faire obéir (de quelqu’un)」つまり「(誰かを)服従させることを拒否せよ」の意に解した。ここでヴィアンは「命令を拒み、命令するも拒め」と自ら命令する・・・・ことにより、人びとに「俺の言葉に従わず、自分の頭で考えろ」と語りかけているのだと読みうる。
 3番a連の四行を文字通りに訳せば「僕は僕の人生を懇願する/フランスの街道を/ブルターニュからプロヴァンスへと/そして人々に言う」となるが、これを孤独な物乞いの言葉として把えるなら、天涯孤独・住所不定でかめのなかに棲んだ哲学者ディオゲネスや、あるべき道理を求めて自分を含む人間すべてに道を問うソクラテスのような人物像が想起されるし、慣用表現の裏の裏を衝いた多面的な詩のありさまは、老子の言葉を思わせもする。
 ヴィアンがアメリカのビート・ジェネレーションをどの程度知っていたのか、海の彼方の流行にどのような思いを抱いていたかは全く知らない。けれども、僕にはどうもこの歌に東洋思想の影響が感じられてならない。とは言え、ビートニクを代表する作家ジャック・ケルアックの『路上 On the road』はまだ正式に出版されておらず、ヴィアンの感性はそれとは似ても似つかないものであるから、老子に象徴される東洋思想や、ギリシャ哲学、それに付随した幻想であるオリエンタリズム/逆オリエンタリズムへの諷刺的パロディとして把えるのが妥当なところだろう。
 最終行文末の「partir」は前に述べた通り「出発する」「立ち去る」「開始する」などを意味する動詞で、「戦争に行くこと」と訳されることが多いが、既に直前の行で「戦争に行くな」と要請していることから推して考えれば、「(戦争などで)この世を去ることを拒否せよ」との意が秘められていると解するべきなのではないかと思う。さらに言えば、ヴィアンが拒否すべきであると告げている行為は戦争によって命を落とすことだけではない。
 ソクラテスはデルフォイの神託に従い、正しい主張を述べ続けたことによってアテナイ市民の反感を買った結果、死罪の判決をうけて毒杯をあおり、その生を終えた。キリストは世界の創造主を自称する神の言に従い、人類の罪をあがなうため十字架に懸けられて果てた。こうした一種の英雄的行為によって、果たして何か問題は解決するだろうか。僕にはこのpartirの一語から「(何かの命に従って)犠牲となることを拒め」という切実な声が聴こえる。これは深読みに過ぎるだろうか?

 [3-c] S’il faut donner son sang
   Allez donner le vôtre
   Vous êtes bon apôtre
   Monsieur le Président

 [3-c] 献血の御用は
   ご自分の血をどうぞ
   あなたは良い使徒だ
   ムッシュー大統領

 [3-d] Si vous me poursuivez
   Prévenez vos gendarmes
   Que je n’aurai pas d’armes
   Et qu’ils pourront tirer

 [3-d] 僕を追うなら
   どうぞ兵に警告を
   僕は武器をもたず彼は
   撃つことができると
   得ることができると
   知ることができると

 3番d連の最終行は文字通りなら「そして彼らは撃つことができる」であり、一般的には暴力に対する無抵抗主義の表明と受けとられている。けれども僕にはパタフィジックの作家であるヴィアンがそれほど単純な歌詞を、歌手に要望されたとは言え何の「仕掛け」もなく発表するとは考えにくい。むしろ、表面上は英雄的な無抵抗主義を装いながら、それそのものが孕む矛盾を暗に批判しているように思える。
 ヴィアンが、彼の代表的な作品として知られる小説『日々の泡』の中に書き記した「僕が興味を抱いているのは、人びとみんなの幸せじゃなくて、各々ひとりひとりの幸せなんだ」(Vian, Boris. "L'Écume des jours." 1947. «Ce qui m'intéresse, ce n'est pas le bonheur de tous les hommes, c'est celui de chacun».)という言葉が、こうした「反英雄主義ヒロイズム的」な読みへと僕たちを後押ししていく。
 動詞「tirer」の自動詞としての意味は、主に「銃を撃つ」で間違いない。当初ヴィアンは最後の二行を「僕は武器を持っており/撃つことができる」と書き、歌手のムルージの意見を汲んで現在の形に書き改めたのだと言う。確かに当初のヴァージョンの方が、3番c連一・二行目の「血が入り用なら/あなたの血を与えなさい」という歌詞の文字通りの訳で、すんなりと文意を読むことができる。
 改作にあたって、ヴィアンは無抵抗主義的に聞こえる歌詞をそのままに、細部の語意や文法表現に微調整を施すことで、単なる反戦を超えたメッセージをこの歌に籠めようとしたのではないだろうか。小説『日々の泡』や別のシャンソン『進歩の哀歌 Complainte du progrès』等に籠められた主なテーマは、社会の機械化にともなう自分自身であることの喪失であり、言語の詩的な可能性による「意識の自動運動への抵抗」が、この歌に秘められたヴィアンのほんとうの声だ。
 tirerのもつ他動詞としての意味には「(何かを)引く」「(誰かを)撃つ」「(利益などを)得る、導き出す」「(場所を)離れる」「(誰かを)救う、助ける」「(誰かを)自由にする」「(結論を)引き出す」などがあり、この歌詞の文意や構造から言って、「僕」や別の語を目的語とした他動詞であるとの読みも、不可能ではないように思える。
 だからこそ、この歌の主語であるところの元兵士は大統領に「あなたは良い伝道師(使徒、熱心な宣伝者)だ」と言うし、兵士たちが言葉の裏の裏まで考えぬいて自分自身であることの決意をもてば、「撃つ」以外の選択肢は自ずと脳裏に想起されるはずだ、という謎かけをこの手紙に託しているのだ、と僕は読む。僕の心にヴィアンの歌はそのように響く。
 考えろ。あらゆる惰性的な自動運動を拒否せよ。僕たちは単なる道具としての機械になってはいけないし、意志を欠いた完全な自動人形になることはできない。もしかりそめにでもそうなってしまった時には、生きているように見えても、そこには君がいない。僕は僕自身であり、君は君自身であるためにしか、この地上に存在することはできないのだ、と。


  呪術的肉体の世界



 再び視点を戻して〈ゴーストハック〉とは何か考えてみようとするとき、話は自ずから〈神がかり〉についての言説に至る。文化人類学的な文脈において広義の「シャーマン shaman」に分類される呪術師たちが超自然的存在――神や仏、精霊等と交信する方法には、脱魂と憑依とがあるとされてきた。「脱魂 ecstasy」とは術者の〈魂〉が肉体をはなれ超自然的存在と合一している状態であり、「憑依 possession」とはいわゆる〈神憑り〉、霊的存在が術者の肉体に宿り動作や言動を制御しようとする状態であるとされ、学問的に区別されている。
 こうした憑依される者としての術者を特に「霊媒 medium」と呼ぶこともあるが、メディウムとは先に述べたように「中間的なもの」を意味する語で、社会的な情報伝達の仲立ちとしてのメディア(記録媒体、あるいはマスメディア)とその語意の一部を共有している。憑依される者としての霊媒メディウムとは中間的な媒介物、仲立ちであり、霊的存在と聞き手が行う交信のための物理的な装置として、雑音ノイズの少ない在り方を求められる。文化人類学的な文脈における脱魂と憑依とのちがいは、術者が霊的存在と接触状態にある際に本人の意識が保たれているか否かであるともされ、霊的存在に憑依された術者ははっきりとした本人の意識に乏しく、正氣に帰ると何も覚えていないものだとう。
 けれどもむしろ、魂がけている様を表す「脱魂」という言葉の方が「心ここに在らず」といった印象を与えやすく、原語のエクスタシーも「忘我」や「無我夢中」などの意に解されていることが多い。脱魂という学術用語に訳された「ecstasy」の語源は古代ギリシャ語の「エクスタシス εκστασις」で、事物や精神が「通常の/日常的な」様態から「それとは別の」様態へと変位することを意味している。プラトン描くところのソクラテスが「何かを純粋に知ろうとするならば、肉体から離れて、魂そのものによって事柄そのものを見なければならない」(『パイドン』プラトン/岩田靖夫訳/岩波文庫 1998)と述べたように、古代ギリシャ語のエクスタシス、そしてエクスタシーという語の哲学的文脈における本義は「魂そのものの状態になる」ことだと言えよう。肉体を檻のようなものと把えるソクラテスやプラトンの考えでは〈魂〉こそが自分そのものであるため、脱魂とは「忘我」や「無我夢中」ではなく「まさに自分自身であること」を意味している。そしてその状態は「日常的な自分」ではなく、「それとは別の自分」として考えられているものだ。
 たとえば、脱魂型呪術の特性をもった技藝に「書」がある。毛筆と墨をもって文字を画く技藝である「書」には、「臨書」と呼ばれる修練の方法があり、臨書における独特の身体性は脱魂型呪術の典型といえるだろうものだ。臨書とは書の古典を手本に達意の筆遣いや氣韻を学ぶ修練法だが、遠い時代に生きた死者の筆致を身になじむまで全身でくりかえし書写する行為は書家に一種の入神トランス状態をもたらし、過去に生き、今ここにも偏在しているのだとされる霊的存在との合一から書の本質に触れあうイニシエーション、通過儀礼としての機能をもつ。ここで用いられている手法は、まさに脱魂型呪術のそれだ。弘法大師空海や良寛といった日本における能書家の多くが宗教者である事実も、書の本質が脱魂型呪術にあることの例証といえる。それではさらに、憑依型呪術に該当する事例についても考えてみよう。
 この国の民間呪術者、巫祝ふしゅくには憑依をもって神意を述べるタイプの術者が少なくない。青森県は恐山に集うイタコの口寄せ、守護霊として家に憑く狐憑き、コックリさんなどの呪術的な行為、存在の多くは憑依型呪術のそれであり、術者の意識とは関わりなく霊的な言説、行動を行うものとされる。神霊憑依現象の一典型であり、近代以後は精神錯乱、統合失調症等の一種とみなされてきた〈狐憑き〉とは、はたして実際に「本人の意識と関わりなく、霊的存在に支配された状態」なのだろうか。
 神霊憑依状態の特徴として記録、もしくは伝聞されてきた非日常的なからだのうごき、火事場の馬鹿力にも似た歯止めのきかぬ怪力、意識の所在がはっきりとしない、恍惚としたどこか無表情にもおもえる表情・・・・・・。こういった異様な印象から、先入観によって固定された物語的要素を一度さっぱりと洗い流し、うごきそのものがもつ微妙なニュアンスの総体としてとらえなおしてみるとき想起されてくるのは、生後間もない乳幼児に顕著なあのいとけなき身のこなしだ。
 乳幼児、特に乳児はその生物的愛らしさによって見る者の意識にバイアス(先入観による認識の歪み)がかかっているものの、実際にはきわめて非日常的な、奇妙なからだのうごきをしている。両の手と足、すべての指、波打つ背骨とそれに列なる骨という骨をうねらせて時に天と地を指さし、すべての骨と骨、すじと筋、肉と肉を巧みに連動させながら恍惚とした表情で子どもはおどる。そしてまた、いとけなき乳児は力の扱いを知らず、時として思いもよらぬ怪力を発揮して僕たちを驚かせるものだ。
 離乳期を迎えるまでの幼児の腸内細菌叢は不安定で、周囲の環境に存在するさまざまな微生物やウイルスの侵入に身を晒している。一般的な幼児の離乳食の開始は生後五・六カ月頃から、離乳完了の大まかな目安は一歳半頃で、大人とほぼ同じ食事を摂ることができるようになるのは三歳の頃だと云う。こうしておおよそ三歳までの間に生存の基盤となる常在微生物叢が構築され、そこでかたちづくられたヒトと微生物たちとの共生関係の基本的な組成は、以後の食事や環境の変化に左右されるとはいえ、個人を特定できる程度に独特のものであるという近年の研究結果を、「三つ児の魂百まで」という言葉は驚くほど良く言いあらわしている。この事実は〈魂〉とは一体何であるかについての重要な視点を示唆するものだが、それに関する考察はひとまずく。
 この時期の乳幼児と、人体を棲処すみかとする微生物たちは今後どのように共存していくかの関係を構築中で、どの微生物が常在菌となるかは未だ不確定なため、からだは常に〈ディスバイオシス〉による不調和と同等の状況に置かれていると考えることもできる。乳幼児に特徴的な一種奇妙にもおもえるからだのうごきは、そうした多分に不確定な状況の反映されたものであると仮定し、〈不確定性〉と〈ディスバイオシス〉の関連性を考慮に入れた上で憑依状態とみなされている「非日常的な」うごきを再度事細かに検証してみるなら、自ずと〈神憑り〉の本質が見えてくるだろう。
 半ば意図的に行われる能動的な〈神憑り〉と、知らぬ間に生じる受動的な〈ゴーストハック〉には、どちらがどちらであるとけてみることの困難な領域があり、それはヒトの免疫系において自己/非自己の境界に生じる〈ゆらぎ〉に対応している。そうした〈ゆらぎ〉のなかにちあらわれてくる諸相を、他者からみて明確に違和感があり、本人の意識が伴わない〈神憑り〉の状態、〈ゴーストハック〉されていることが本人にも他者にもそれと認識されない状態、一見してそれとは判らないが自ら意識的に〈神がかる〉ことで変容を生じた状態など、いくつかの系統に別けて考えてみることも不可能ではない。とはいえ、理性ロゴスによって客観的に分類可能であるのは過去の出来事のみであって、今まさに持続中の状態については予測的/確率的な表現を避けることが困難だが、こうしたきわめて不確定なものである〈ゆらぎ〉の姿を、多くの先人は言語のもつ象徴作用である神話ミュトスを用いて暗喩的に言いあらわそうとしてきた。


  三千世界と方舟の〈ヴィジョン〉



 氣候や環境の変化、肉体的な苦行や瞑想、特殊な薬用植物の摂取、ある特定の音やことばを反復することなど、ヒトが〈神憑り〉の状態に至る道はさまざまだが、そこに共通してみられる事象に〈ヴィジョン〉の到来がある。
 神話や伝承、聖書や仏典といった様々な教典、あるいは現代的な宇宙意識とのチャネリング等を通して描きだされた、世界の成り立ちと行く末。それらを微生物、とりわけヒトの腸内に棲息する細菌たちの視点に照らし合わせて紐解いてみれば、世界の滅びと再生を語る終末観は、そのもの人体の崩壊と常在微生物の親から子への移住と重なり、大洪水と方舟はこぶねの物語は、下痢による腸内微生物叢の浄化、仏典に描きだされた無数の三千大千世界は、ヒトの数だけさまざまな腸内環境が存在する事実と重なる。英語で「移住」を意味することばの一つである「transmigration」の第一義は「死後に魂が別の体に移ること」つまり「輪廻転生」であり、別の章で述べた〈霊魂 spirit〉の半面は微生物のことであるとの試論(『精霊について』)に幾分かの実証性を認めてみれば、魂の輪廻が意味する内容の一部は「常在菌の宿主間移住」であると考えてみることが可能だ。
 単細胞の二分裂という自己複製によって増殖を続けていく細菌の主観を推察すると、彼らにとっての「一個体の死」は必ずしも「自分の死」を意味してはおらず、「自分たち・・・・という超個体を構成している一細胞の死」として認識されているであろうことが、ごく自然で理にかなった成りゆきとして想像される。超個体としての微生物群集はあたかも「不滅の霊魂」であるかのごとく人体=世界の滅亡と再生を幾度も味わい、数多くの宿主間移住を続けてきたのだろう存在であり、「無数の三千世界」や「終末論的世界観」そして「大洪水と方舟の物語」は、そうした彼らの経験が一種の〈ヴィジョン〉としてヒトの脳裡にもたらされることで形成された、心象イメージの産物なのではないだろうか。
 人体腹部の右下に位置する大腸の入り口には袋状の器官である盲腸と、そこから突起して細長く垂れ下がった虫垂がある。草食動物の盲腸は共生細菌の分泌する酵素でセルロース(植物の細胞壁および植物繊維の主成分である炭水化物)を分解・消化し、エネルギーを得るための重要な器官だ。それに対し、肉食動物の盲腸はとても小さく、雑食動物であるヒトの盲腸ではセルロース消化の役割はほとんど失われていると言われる。そのため虫垂は、進化の過程で機能を喪った遺物だとの安易な決めつけによって本来の存在意義を見過ごされてしまい、痛みや炎症を起こすだけの不要なものだから切除して構わないという誤った認識が長らく社会通念として是認されてきた。けれども盲腸には腸内微生物叢と連携して働く免疫細胞が多数存在し、虫垂は不要どころか、免疫系を正常に機能させるための重要な器官であることが明らかになってきている。
 長さ約八センチ、直径およそ一センチの管状の器官である虫垂は、微生物が安心して人体に棲息できるよう用意された隠れ家のようなもので、そこには特殊な免疫細胞である「虫垂リンパ組織」と、その細胞が産生する「免疫グロブリンA」(IgA:Immunoglobulin A)という分子がぎっしりと詰まっている。IgAは消化管や呼吸器などの粘膜組織における免疫応答(抗原抗体反応)の主流として知られる抗体の一種で、粘膜面への微生物の侵入を防ぎ、免疫系の過剰反応を抑制するなどの働きを通して腸内微生物叢のバランスを維持する役目を担う糖タンパク質分子だ。虫垂は常在微生物たちの共同体を守り、育てるための特別な空間であり、彼らはそこにバイオフィルム(菌膜)と呼ばれる層状のコミュニティ――多種多様な微生物によって構成された、生息密度の高い閉鎖的コロニー――を形成し、共同体を脅かす可能性のある外部の存在を侵入させないよう、相互に情報を伝達・共有しながら支えあって暮らしている。
 免疫系と常在微生物叢が協働してはたらく「細胞社会」のコミュニティ・センターである虫垂は、消化管に何らかの危機が生じた際に常在菌たちの逃げ込む避難所としても機能している。食中毒や感染症、抗生物質の投与などにより消化管内が激しく乱されることがあっても、被害を事前に感知することのできた常在微生物は虫垂に一時避難し、危機の落ち着いたのちに再び腸内にひろがり、活動を始め、ヒトと微生物の共同体がかたちづくる細胞社会を〈ディスバイオシス〉による荒廃から再生していく。
 こうした虫垂のもつ機能は多くの要素が「大洪水と方舟の物語」の内容と通底しており、旧約聖書の創世記やコーランのみならず、シュメール人の遺跡から出土した粘土板や、古代メソポタミアのギルガメシュ叙事詩などにも記された方舟の神話を腸内細菌の視点からみた虫垂の姿と重ね合わせてみる作業は、言語の象徴作用によって表出された暗喩メタファーの意図をより直接的、即時的に把握しようとする試みであって、〈魂〉とはいったい何であるかを問うために必要な過程であると、僕には感じられてならない。


  生命の息吹きと〈媒体〉の意識



 ソクラテスの孫弟子にあたる古代ギリシャの哲学者アリストテレスは〈霊魂 psykhē〉 を「組織された運動パターン」あるいは「組織構造」として把えた。それは僕自身の実感としてある〈魂=からだに現れるうごき〉という認識に相通じるものがある。〈魂=ゴースト〉とは何か漠然とした抽象概念ではなく、実際の事象、出来事を緻密に観測していけば確かにそこに存在している物理的な現象、ニュートン力学やユークリッド幾何学の範疇では描ききれない、より微細な〈ものごとのうごき〉だ。
 アリストテレスが「プシュケー Ψυχη」という古代ギリシャ語を用いて表現した何かは、訳者それぞれの選んだ限定的な文脈に即して霊魂、魂、心などいくつかの言葉に翻訳されている。けれどもこの語のもつ本義は氣息きそく、つまり「生命の息吹き」であり、霊魂、魂、心、生命、生氣、霊氣、精神、心理その他の訳語すべてのニュアンスを含んだ「いのち」という言葉に心が感応する場面の、ごく微かに覚える風のような感触に近い。より限定された文脈において「組織された運動パターン」または「組織構造」を意味する語として用いられる際のプシュケーは、体をひとつの組織化された構造として作動させるための「生命原理」とでも呼ぶべき力を指し示している。師のプラトンやソクラテスが肉体を魂の檻もしくは器として把えたのに反して、アリストテレスは霊魂プシュケーを「それがなければ肉体が存続しえないもの」であると考えていた。魂がなければ肉体は崩壊してしまうだろうという彼の認識の論旨は、別の章で述べた「魂は肉体の器である」(『春の記憶:物語の重力』)という僕の実感の姿に等しい。
 さらに彼はプシュケーを「栄養を摂る霊魂」「感覚する霊魂」「思考する霊魂」の三つにわけて説明したが、いまここで仮に、先に引いた「精霊スピリットの半面は微生物である」との試論を彼の霊魂論を補うものとして適用してみるなら、人体に棲息する常在微生物叢の活動はまさに「栄養を摂る霊魂スピリット」の概念に照応する。ヒトが食物から養分を得るには腸内細菌の分泌する酵素で有機物が分解される過程がおおよそ不可欠であり、人体に常在している腸内細菌叢が肉体存続の根幹をなす「栄養摂取のための生命原理プシュケー」として機能していることは確かな事実だ。
 アリストテレスが「思考する精神プシュケー」と呼んだものは端的に言えば「理性 logos」であり、生命体の免疫系において自己/非自己を論理的に識別する主体としての「自己」に該当している。プシュケーの原義が「息吹き」であることに留意し、僕自身の実感に即してさらに言い添えるとするなら、「自己」とは「はっきりとした意識をもって行う、深く自然な呼吸」である。ヒトのからだに棲息する「非自己」の多くは嫌氣性微生物で、彼らは宿主の意識に化学的な介入を及ぼし、身体各所に酸素の行き届かない空間をつくりだそうとする傾向をもつ。そのため、好氣性の生物であるヒトの体を健康な状態に維持するには深い呼吸が必要なことは別の章(『自然連絡網に加わる』)で述べた。そうした微生物による介入のしくみを理解し、必要十分な呼吸を自発的に行うための主体が「自己」としての理性であり、より事細かで精密な認識においては、理性と呼吸を分けて考えることはできない。理性とはヒトが生きぬくために自ら見いだしていくかそけき風の通り道であって、眼には見えないその姿はまさに「思考する息吹きプシュケー」である。
 それに対して、「栄養を摂る精霊プシュケー」としての常在微生物叢は自己が生命を維持し、肉体を存続させるために必要なものとして受容している明らかな「非自己」だ。免疫系をかたちづくる「自己」と「非自己」とに対応しているこの二つのプシュケーの境界には、自己/非自己が完全に重なりあい、それぞれを別の要素として分けてみることの困難な状況としての〈ゆらぎ〉が生じていて、その領域を「感覚する霊魂プシュケー」に照応させて考えてみることができるように思う。
 感覚とは身体からみて外部にある事象を観測する行為である。そのため、「粒子レベルの微細な現象に関して二つの異なる物理量を同時に精確に測定することはできず、片方の物理量は確率的にしか表現することができない」という、不確定性原理によって定義された「量子ゆらぎ」(Quantum fluctuation)の生じている状況を「感覚するプシュケー」の姿として想い描いてみることもできるだろう。アリストテレスはこの「感覚する精神プシュケー」を、動くものとしての(動物的な)生命体の行動原理であるとも考えており、この定義と僕自身の実感とを重ね合わせた彼方に浮かびあがる〈魂=からだに現れるうごき〉は、自己と非自己の境界に生じた「感覚する心」の働きにより、絶えることなくゆらめきながら持続してゆく「いのち」そのものの在り様であるのだと言える。
 自分という存在の根幹であるところの〈魂〉が三つの要素で構成され、そのなかに非自己が含まれているとの考えはどこか不可思議なようにも思える。けれども、個人を形成している魂は複数であると把えた文化は世界各地に散見されるもので、それほど風変わりな話ではない。歩くエンサイクロペディア(百科事典)と呼ばれた博物学者・南方熊楠は、ヒトの霊魂が単一ではなく、しかも空中を漂う微生物のように人体を出入りしているものであるとの古今東西の記録を、次のように纏めている。

「靈魂不斷人身じんしん內に棲むとは、何人なんぴとにも知れ切つた事の樣なれど、又例外無きに非ず。極地の「エスキモー」は、魂と、身と、名と三つ集りて個人を成す。魂常に身外に在りて、身に伴ふ影の身を離れざる如く、離るれば身死すと信ず。(Rasmussen, 'The People of the Polar North,' 1908, p. 106.)神道に幸魂さきみたま奇魂くしみたま和魂にぎみたま荒魂あらみたま等を列し、支那に魂魄こんぱくを分ち、佛典に魂識、魄識、神識、倶生神くしょうじん識等の名有り。古埃及エジプト人は、「バイ」(魂)の外に「カ」(副魂)を認めたり。(第十一板大英類典九卷五五頁)是等は、魂の想像進みて、人身に役目と性質異る數種の魂有りと見たるにて、其內に眠中死後からだに留る魂と、拔出る魂と有りとせるやらん。」(「睡眠中に靈魂拔け出づとの迷信 二」南方熊楠/『南方隨筆』/岡書院 1926/pp. 273-274.)

 仏典にみられる霊魂の一種として引用された「倶生神くしょうじん」は、『薬師経』のサンスクリット本にある「生まれつき背後に結びついたデーヴァター」という記述の漢訳であり、倶生とは「ともに生きる/同時に産まれる」を意味する語だ。この「産まれながらにともに生きる神」は「其の人と同時にうまれ、常に其の兩肩りょうかた上に在りて、善惡の兩業りょうごうを記識し、死後、これを閻魔王に奏上する二神」(『望月佛教大辭典1』望月信亨/世界聖典刊行会 1916/p. 426.)であると信じられており、おおよそ似かよったものに道教の「三尸さんし」(庚申こうしんの日に人体から抜けて宿主の罪を天帝に告げ、人の寿命を縮めるとされた三匹の虫)がある。
 こうした話は一見、「自己に付随した明らかな非自己」の、とりわけ顕著な例として考えうるように思える。けれども『薬師経』のサンスクリット本には「善悪二神」の記載は無く(漢字の「倶」には「連れ立つ」の意があるからそこから派生した誤解だろう)、さらに或る学者の校訂本では「共に生きる神」との解釈も消えてしまい、「善悪の業の記録を伴いながら輪廻する心」として記されているのだと言う。ここには奇妙なかたちで自己/非自己の境界の不確かさが示されていて、深く考えさせられるものがある。
 また、熊楠は友人である真言宗の僧侶・土宜とき法龍に宛てた書簡において、個人の心(つまり霊魂プシュケー)は複数の要素によって構成されているものだとの考えを、次のように書き記した。

箇人こじんしんは単一にあらず、複心なり。すなわち一人の心は一にあらずして、数心が集まりたるものなり。この数心常にかわりゆく、またかわりながら以前の心の要項を印し留めゆく〔・・・〕しかるに、複心なる以上はその数心みな死後に留まらず。しかしながら、またみな一時に滅せず、多少はのこる(は永留の部分ありと信ず。)」(『南方マンダラ 南方熊楠コレクションⅠ』南方熊楠/中沢新一編/河出文庫 1991/p. 377.)

 この書簡における熊楠の考えによれば、一人のヒトの心(霊魂)は一つではなく、複数のものが集まった常に変化する動体であり、絶えることなく変化を続けながらも、それ以前の心(霊魂)に生起した事柄の要処を随時記録し、記憶してゆくものであると云う。こうして常に変化して止まない複雑な動体として描写された心のさまは、多様な微生物たちの共同体と細胞の社会がかたちづくる「一つの生態系」としてのヒトのからだの景色を、如実に表現している。その意味では、熊楠の云う「複心」の含意を「心の森の生態系」として持続していく常在微生物叢の姿を孕むものと読むこともできるだろう。書簡中の「以前の心の要項を印し留めゆく」という記述は、微生物やウイルスのもつ〈遺伝子の水平伝播 Horizontal Gene Transfer〉と呼ばれる不可思議な特性と照らし合わせてみるにきわめて示唆に富む表現であるが、遺伝情報の本質に纏わる話題はまだまだ不明瞭な部分の多い分野であるため、ここでは注意を促すに留めて深入りを避けたい。
 心(霊魂)が複数のものであるからには、その内の幾つかはどれも死後には散逸、もしくは消え失せてしまう。けれどもまた、すべてがことごとく失われてしまうわけではなく、死後もその一部がこの世に留まる「不滅の霊魂」を信じているのだと熊楠は記す。超個体であるところの常在微生物叢は〈ほぼ不滅の霊魂〉として人体の崩壊を幾度も味わい、数多くの宿主間移住を続けてきただろう存在と把えることが可能で、この仮説を適用するなら、熊楠の云う「永留の部分」は「栄養を摂る霊魂プシュケー」としての腸内微生物叢に該当する。その他の「思考する霊魂」および「感覚する霊魂」については、個人の死後も引き続き存続するものと仮定するには論拠に乏しく、死後にはその一部もしくは全てが散逸、消滅してしまう可能性もありうるだろう。あるいはむしろ、自己という意識に関連した霊魂が死後も存続することを強いて立証しようとする行為は、何かの誤りを孕んでいるようにも思う。そもそも「自己」とはいったい何であるのか、僕たちはさらに深く問いかけてみる必要があるのだ。
 こうした霊魂プシュケーのありさまを実感することを通して、自らのからだが外部からの介入、多種多様な「組織された運動パターン」に対して開かれた〈媒体〉であることに氣づくと、自己と非自己の相交わる領域のさなかで〈神懸り〉と〈ゴーストハック〉のせめぎあいが常に生起しては流転していることが自ずから理解されはじめる。過去と未来、輪廻と解脱、パターンとパターンからの逸脱、型と型破りの動揺・・・・・・。螺旋回転を描いてゆれうごく時空のさなかで、数限りない幻影の姿に翻弄されつつ〈魂〉の自在なうごきを探れば、心が先行してからだがついてこないときがあるように、からだが先行して心が追いつかないこともあるのだと氣づく。  今ここに書き記した「心」と「からだ」を、これまでの話に即して言いなおしてみるなら、それは「思考する息吹き」としての理性と、「生命を維持する原理」としての常在微生物叢であり、その二つの「いのち」が触れあう自己/非自己の境界の彼方に、自発的に芽生える意志としての「感覚する心」と、中間的な〈媒体〉の感覚を超えて目覚める〈ものごとの自在なうごき〉とがある。心とからだは対立する二つのものではなく、肉体は精神の檻ではない。からだは心が「ただ一度きりの生」を味わうために想起している「かけがえのないいのち」の姿だ。だからこそ僕は僕自身であり、君は君自身であるためにしか、この地上に存在することができない。
 僕が僕自身であり、君が君自身であるとは、心とからだの奥にある〈光景の彼方〉に生じた数限りない自己/非自己の対話を通して、ただ一筋にいのちであること。いのちは無常の海に波を起こし、型と型破りの迷いを信念に転じ、またとなく繰り返す。大切なのは生を全うすること。確かに生きて、過去と未来の〈縁〉を色あざやかにつむぐ。それが今ここにある確かな意味だ。その意味を思い出しつづけ、いまここにあるいのちの対話を続けていくことが、〈ゴーストハック〉による自滅の道を免れ、自分とは何かを深く問いつづけていくための「たった一つの冴えたやりかた」なのだと思う。

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参考文献|References

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