Homo rehabilis【7】自然連絡網に加わる


 母なる地球の自閉症児となったヒトが再び〈縁〉をひらき、自然のつながりに参入するには、いくつかの方法がある。
 例えば、あぶや蝿、蜂などの虫がどこか耳障りに思える羽音を鳴らし僕たちの周囲をび廻るとき、その音をできるだけ精緻に真似て唱和してみる。するとその音は、僕たちのからだの酸素が行き届いていない部位を開く聖なる音、〈マントラ〉であるのだと知られる。〈マントラ mantra〉はサンスクリット語で「言葉」を意味し、密教では〈真言〉とも訳され神仏への讃歌や咒文を表す語となったが、その本質は「オン ॐ」の一字に籠められているように、低音から高音に到る多様なニュアンスのなかから適切に選びだされた音を響かせ、からだを純粋に振動させることにあるのだと言える。
 部屋の中に飛び込んでやたらと羽音を鳴らし、いつしか事切れてしまう虫は迷い子のようで、一見まったく無駄死のように思えもする。けれども、からだの感官を研ぎ澄ましてすべてのうごき、すべての音のありさまを受け入れ、自らのからだの反応を事細かに観察してみると、彼らがヒトの心身を癒す舞いと咒文をもたらす来訪者であったことに氣づかされるだろう。彼らの羽音はその時そこに必要とされる純粋な振動であり、不可思議にも思える虫たちのうごきは眼に見えない大氣のありさまや菌たちの活動に大きな影響をもたらす。
 僕たちが生き、そして死んでいく一連の流れのなかにたちあらわれる多様な存在たちは、それぞれに固有の問いかけをもち、その問いを受け入れこたえを発すれば彼らは僕たちに様々な恩恵を与える。たとえば人が道ゆく先で犬に吠えられ空き缶につまづくとき、犬はある固有の音を響かせてその人の頸椎の歪みをただし、空き缶は足の小指に衝撃を与えて陰部と下半身の血のめぐりを促す。あるいは身の廻りをスズメバチがび、耳に障るかぼそい音と共にやたらと蚊に纏いつかれることがある時、そこにはその音とうごきが必要となる何かの因果があって、その問いへの応えを確かに導きだすことから因果は正しく紐解かれ、紡ぎ継がれる。
 母なる自然は〈自閉症〉になった子どもであるヒトをすべてのつながりのさなかに戻そうといつでも使者を送り、耳元でメッセージを語り続けている。花の色や風の薫り、灼けつく日差しや凍える雪の夜、美しさと親しみを覚えるそうした風物とともに、一見不愉快にも思える氣候の変化、虫たちの模様や羽音、行動はそれぞれにヒトの閉ざされたからだと心を開くパスワードなのだと言える。
 自然は常に部分と全体からなり、一羽の鳥の鳴き声は彼が愛を唄う歌であるとともに鳥類全体の呼び声、そしてその土地、母なる大地そのものの声でもある。一羽の鳥があなたの前に姿を見せ独特の声で鳴くとき、その個体の意志する意味と同時に、自然全体の意志が伝えられる。部分は常に全体であり、その逆もまた然りだ。


  ヒトの意志と微生物



 ヒトのからだには、酸素を好む微生物と、酸素を嫌う微生物、どの環境でもそれなりに順応する中間的な微生物たちが生活しており、人それぞれの呼吸具合によって身体各所への酸素の行き渡りが変わるため、彼らの勢力地図は日々書き換えられる。深くゆっくりとした腹式呼吸をおこない、自らのからだの様子をあらためて認識し直してみると、思ったよりも酸素の行き届いていない箇所が多いことが知られるだろう。そうした酸素と意識の行き届いていないからだの部位には、酸素を嫌う微生物たちが人知れず棲息している。
 僕たちヒトはからだが酸欠状態に傾くと我を失い、自身の考えとは真逆のことばを口にすることがある。これは必ずしも脳の酸欠によるばかりでなく、腸の酸欠による場合が少なくないように思える。腸はそもそも酸素に乏しい環境で、腸内フローラを構成する常在微生物の多くは生育に酸素を必要としない「嫌氣性微生物」だ。そこに含まれるビフィドバクテリウム属とラクトバシラス属の主だった乳酸菌、バクテロイデス属、クロストリジウム属、ユーバクテリウム属などの細菌、そしてメタノブレウィバクテル属のメタン生成古細菌が「偏性・・嫌氣性微生物」(酸素があると生存もしくは活動のできないもの)として知られている。
 大腸菌(Escherichia coli)やラクトバシラス属の一部の乳酸かん菌、エンテロコッカス属の乳酸球菌、ストレプトコッカス属のレンサ球菌などは「通性・・嫌氣性微生物」(酸素があっても生存できるもの)として知られ、生育に酸素の必要な「好氣性微生物」と、酸素があると生育できない「偏性嫌氣性微生物」のどちらにも分類されないこうした中間的な微生物は、その特質から「微好氣性」の微生物と呼ばれることもある。一般的な成人の大腸に棲息する微好氣的な「通性嫌氣性細菌」の概算は、全体の千分の一か、それよりも少ないのではないかと見積もられている。こうして概観すると腸内微生物のほとんどが嫌氣性細菌であるため、「腸の酸欠」という言葉に妙な印象を覚えるかも知れない。
 たしかに大腸は嫌氣的な環境で、腸内細菌の九九%は偏性嫌氣性だと言われる。けれども小腸の上部は比較的酸素が豊富で、そこには酸素を好む「好氣性微生物」の酵母や緑膿菌、枯草菌などのバシラス属細菌、一部の「微好氣的」な乳酸菌などが棲息し、小腸下部には「通性嫌氣性細菌」と「偏性嫌氣性細菌」が混在している。また、腸内細菌はヒトのからだの常在菌の約八割を占めているとも云うが、消化器官以外の体表面には表皮ブドウ球菌、黄色ブドウ球菌などのスタフィロコッカス属細菌、アクネ菌、枯草菌、酵母をはじめとしたさまざまな微生物が棲息しており、腸中心にヒトのからだを考えることは必ずしも事実に即したものの見方ではないだろう。
 ヒトはそもそも好氣性の生物であり、ヒトの腸細胞は微好氣性(通性嫌氣性)であるから、腸内環境が嫌氣的であっても、腸そのものは酸素を必要としていることを忘れてはならない。腸内環境が嫌氣的なものであるということは、腸そのものがその影響を受けやすいことを意味し、だからこそ自発的に深い呼吸をおこなって血行を促し、腸細胞に酸素を行き渡らせる必要があるのだ。腸の細菌が食物を分解する際に行う嫌氣発酵に必要な温度は、腸に血液を集めて体温を上げることにより保たれているため、「腸の酸欠」は嫌氣性細菌にとっても良いことではない。
 ヒトのからだはこうした多様な微生物たちがかたちづくる一つの生態系であり、彼らの活動の複雑な相互作用によってなりたつものであるから、呼吸の微妙な変化が「腸の酸欠」として宿主に及ぼす影響は想像以上に大きい。希少な動植物の種が滅んでしまうと生態系の複雑な相互作用が成り立たなくなることが十分ありうるように、腸の酸欠がもたらす結果を、多様性の喪失と、それにともなう相互作用の不調和として想い描いてみることも可能だ。こうした不調和は〈ディスバイオシス dysbiosis〉と呼ばれているが、〈共生 symbiosis〉という言葉のなりたちと照らし合わせて考えてみれば、多様な微生物同士の共生関係、ひいては微生物と宿主であるヒトが結ぶ共生関係の混乱としてとらえなおしてみることができるだろう。
 呼吸が浅く、酸素がすみずみまで十分に行き渡ることのないヒトの体においては、常在微生物そうのバランスが崩れ、一部の微生物が過剰に増殖する状況を招きやすい。腸に棲息するある種の偏性嫌氣性細菌は、脳や神経系に麻痺をもたらす物質を造りだして僕たちのからだの意志に即した動き、働きを妨げることがある。そうした細菌が過剰に増殖し、彼らの活動が病原性を発現するようになると、麻痺性の物質が多く産生され、炎症や肥満、免疫機能不全が起こる。ヒトの肥満に密接な関連をもつのだという「フィルミクテス門」(Firmicutes)に分類されるクロストリジウム属細菌(Clostridium)の一部は、多くの成人の腸にみられる常在菌でもあるが、過剰な増殖によって病原性を発現することが知られている。
 腸は一見からだの内側にある。けれども、口から肛門へと続く消化器官はあくまでからだの外側、体表面であり、腸内細菌がヒトの体の内側に侵入することは基本的にはほぼない。にもかかわらず、さまざまな要因が重なり腸壁に隙間が生じることで、体内に細菌や彼らの産生する化学物質が侵入し、自己免疫疾患や肥満を引き起こすことが知られてきている。嫌氣性微生物の過剰増殖で相互作用のバランスが乱されると、その他の好氣性微生物や通性嫌氣性微生物などの過剰増殖を誘引し、普段は人体に害をなさない微生物が病原性を発現する場合もあるのだと云う。
 からだの酸欠、嫌氣化とは生態系としての環境条件が偏ることで微生物の多様性が喪失、あるいは混乱に陥ることを意味し、それはそのまま土壌の過剰な嫌氣化による生物多様性の喪失、生物相互の共生関係の混乱につながっている。からだの酸欠によって常在微生物叢の複雑な相互作用が崩れ、麻痺性の物質によって思考の働きを乱されてしまったヒトは、自らの行動の意味を正しく判断できなくなり、土壌の生態系にまで混乱をもたらす行動をとるようになるのだ。
 現代を生きるヒトの多くは、さまざまな要因により呼吸と認識のありさまが浅くなる傾向にあるため、常在微生物叢のバランスが崩れ、からだと行動が過剰な方向に傾きやすい。それはそのヒトの言動、うごき、姿勢や肌の状態などを見ることで大まかに判断が可能だ。病原性を発現した微生物の働きに強く影響を受けたヒトは、自らの本来の意志に反して自然環境を過剰に改変するようになるため、殺菌剤、殺虫剤、除草剤などの毒物を用い、化学肥料を多量にばら撒いて土壌の共生環境を破壊する結果となった。


  わかちあうことの意味



 アメリカ大陸先住民の多くの部族が行う重要な祭祀の一つに、スウェット・ロッジ(sweat lodge)と呼ばれる儀式がある。母なる自然の子宮に模し、一定の法則に従い建てられたドーム状の小屋で行われるこの儀式は、腰布一枚の姿で参加者が集い、密閉された暗闇のなかで焼け石に薬草をくべ、水をかけた高温多湿の環境において〈大いなる神秘〉に感謝の祈りを捧げ、それぞれが自らの意志を語る。スウェット・ロッジは「浄めの儀式」であり、重要な決断や祭祀を行うまえに、身心をあらため、良い行いのヴィジョンを得るためのものであるとも云う。僕も二〇一五年の冬至、翌年の夏至、冬至と、縁あってこの儀式に参加させていただく機会を得た。
 焼け石にセージをくべ、用意した水をかけて創られた環境は暗黒のサウナとでも呼ぶべき空間であり、太鼓と歌で〈大いなる神秘〉や土地の精霊、祖先の霊などを呼んで感謝を捧げる。〈大いなる神秘〉は、スー族の言葉では「ワカン・タンカ」(Wakan Tanka)と呼ばれ、英語圏では通例「グレート・スピリット」(偉大なる精神、もしくは精霊)と訳されている。部族によってさまざまな名前で呼ばれる〈大いなる神秘〉は人格神ではなく、始まりもなく終わりもない世界の創造主であるとも、世界を存在させている根源的な力だとも言われているが、それがまさに何であるのかは分からず、言葉で表すことはできないようにも思える。
 けれども、僕たちヒトを含む動物や植物、昆虫、微生物、その他あらゆる存在の宿主としての地球――自然を、わかちがたい一つのものとして感じなおしてみる時にちあらわれてくる〈大いなる意志〉という言葉が、今は何より腑に落ちる表現かも知れない。部分は常に全体であり、その逆もまた然り。自然の生態系というひとつの全体に意志はあるのか、という問いは今日、ひとつの生態系である自分に本当の自由意志はあるのか、という問いへと直接つながっている。あらゆる存在の宿主である自然の〈大いなる意志〉を心に想い画いてみるということは、多様な微生物たちにとっての宿主である自分自身の意志を、たしかに見定めてみることに他ならない。
 そうして〈大いなる神秘〉と精霊や祖霊を呼び、感謝を捧げる歌をうたうと、小屋のなかに円を描いて座る参加者全員がそれぞれに時間をいただき、右廻りに一人ずつ自らの意志を述べる。その間、発話者以外の者は高温と多湿、密閉による酸素量の限定に晒され、半ば朦朧とした意識をどうにか保ちながら人々の話を聴き、考え、順序に応じて自らの意志を語り、儀式を終えるまでの限られた酸素を共有することとなる。限定された酸素量は高地トレーニングにみられるように、呼吸機能を刺激してからだのすみずみへと酸素を行き渡らせる作用がある。けれども、高山病のような危険や逆効果も考えうるため、無理は不要だ。無理とは道理に反する行為であり、過剰な苦行は予期せぬ破綻となって自らの意志を滅ぼす。
 現代のスウェット・ロッジでは、儀式の途中、主催者の判断によって幾度か小屋の入り口が開けられ、酸素の欠乏と高温多湿から一時的に救いだされることがある。儀式を終えるまで耐え抜くことは義務ではなく、自らの限界を知り、途中で小屋から出ることも可能だ。けれども参加した誰もが、できれば最後までやり遂げたいと感じている。けれども無理に残るよりは、思いきって小屋から出ることで空間に余地が生まれ、別の参加者の助けになるかも知れない。自分はそもそも何故この儀式に参加しているのだろうか? 私にいったい何を語ることができるというのだろう? そうした複雑な思いを抱きながら、限られた酸素のなかで人びとの話を聴き、自らの意志を語るその時間は、いわく名状しがたい特有の心の状態を一人ひとりの参加者にもたらすだろう。そうして儀式を終えることで、有限の世界をわかちあう行為の「有難さ」を、僕はより深く理解することになった。


  〈縁〉の法則



 自然界に存在するすべての事象には善悪、正邪はとりわけてない。存在とは良い悪いのことばで規定できるようなものではなく、善悪は行為の側にある。悪い行いをした・・人はいるが、悪い人はいない。良い行いをしよう・・・と心がけている人はいるが、良い人はいない。善人、悪人という観念はあくまで想像の産物、物語の登場人物であり、自然界には存在しない。
 良い行い、悪い行いはたしかにある。けれども、あらゆる行為はただ一度きりの、二度と繰り返されることのないものであるため、どのような行為が善で、どのような行為が悪であるかを、言葉でわけて言い表すことはそれほど容易ではない。言葉は反復性を前提として機能するため、行為の正邪を表現することに適していないと思える。良い行いはただ一度きりの行為のなかで、自らそれを体現することによってのみ表すことのできるものだ。それが忘れ去られた時に、過ちが生じる。そうした過ちの最たる例は、一つの事象、ひとつの集団が有限の世界を独占しようとすることだ。それは夢見ることの叶わない夢であり、いま・ここには実現することができない。どの動植物、微生物にも、自らを繁栄させたいという意志があり、自然の複合的な多様性に身をゆだねながらも心密かにそれを希求している。
 アメリカ大陸先住民や仏陀のことばが伝える「すべてはつながっており、すべては共有される」という〈縁〉の法則を忘れ、母なる地球の自閉症児となったヒトの腸内で過剰に増殖した一部の微生物たちは、彼らの望みに従ってヒトのからだを完全に酸素のない世界にしたいと夢見る。けれどもそれは叶わない夢、宿主を損なう行為であり、そうなっては自らの繁栄も崩れてしまう。それゆえに彼らは、ヒトのからだと行いを通して、外部の環境を彼らにとって快適な条件の世界に改変しようと夢見る。一部の細菌にとっての快適な環境条件とは、酸素濃度が低くオゾン層の存在しない、自然放射線量の高い太古の地球であり、野生への過剰な回帰願望は森林生態系の破壊へとつづく夢だ。
 もちろんこれは言うまでもなく一つの仮定であり、悪を夢見るある種の微生物たちの思惑によって人類の多くが支配され、彼らの願望を果たすために使役されているのだ、という話ではない。そうした〈物語〉そのものが夢見ることの叶わない夢であり、理不尽な不条理を生みだす幻影の母体である。悪人、善人という観念と同じく、善玉菌、悪玉菌ということばもあくまで虚構だ。ある種の細菌の働きがヒトのからだに悪影響を及ぼすことはたしかにあるが、それは常在微生物叢のバランスが崩れ、多様性が失われかけた結果として生じるものであることが知られてきている。嫌氣性細菌にもヒトという種にも、同じく自らを繁栄させたい希望があり、その希望を可能なかたちで実現させようとする全体の意志がまたある。
 自然は常に部分と全体からなり、部分はまた常に全体でもあって、その逆もまた然り。その前提に立ち戻って微生物とヒトを含めた動物、植物、その他有機物、無機物の相互関係を眺めなおしてみると、いま〈自然〉と僕たちが呼ぶものの意志がたしかにちあらわれてくる。けれども不可思議なことに、そうした〈自然〉の姿が人びとの眼に全く不条理な文様として映しだされる場合がある。こうした不条理、道理にあわないように思える物事の姿は、どうして現れてくるのだろうか?
 女性型の存在として語られることの多い〈自然〉は、古人が多くそう形容したように愛憎深く単純で、ときに不条理を孕むものにも見える。この国の神話において国産みの母とされるイザナミノミコトは、すべての島々、僕たちのおやであるとされる神々を生んだ大地の母であり、死後には自らのすえたる生者を日々殺しつづけると告げたもうた黄泉の国の主でもある。
 こうした神話は通例、「自然は優しさと残酷さを同時にあわせもつ」という、何か深遠な真理を秘めているようにも思える、まことしやかな言葉で物語られているが、このような言葉は、どこか偽りの匂いを感じさせるものだ。すでに述べた通り、物事を必要以上に単純化して描きだそうとする〈物語〉こそが、夢見ることの叶わない夢、理不尽を生みだす幻影の母体である。理不尽とは道理が尽くされていないこと、十分に熟慮されていないことを意味し、事物を実態よりも単純化して把えてしまうと錯誤が生じる。このような夢、このような幻影が、僕たちヒトの脳裡に生じることとなる端緒は、どこにあるのだろう?


  母なる自然の不条理



 ここで僕たちは母なる自然から目を転じて、ヒトの子の母たる女性を見つめてみたい。女性は子宮の機能を中心とした月経周期の巡りのなかで、自分では制御しきれないような感情の高まり、怒りや不安、意志とは裏腹な行動を見せることがある。これには酸素の欠乏と、一部の偏性嫌氣性細菌たちの活動、そして「周期としての時間」という概念が大きな影を投げかけている事を、見落としてはならないだろう。
 子宮という特異な環境をもち、胎児の出産という物理的にみればいささか強引な役割をになった女性のからだは、分娩のために骨盤をひらく際に感じる痛みを軽減させる必要から、男性よりも嫌氣性細菌たちの優位な状態を招きやすい傾向があるように思える。「ウェルシュ菌」(Clostridium perfringens)や「破傷風菌」(Clostridium tetani)、「ボツリヌス菌」(Clostridium botulinum)などのクロストリジウム属細菌に代表的な、病原性の発現で知られる偏性嫌氣性細菌たちの一部は、ヒトのからだを麻痺させる物質をつくりだすため、出産によって生じる苦痛を軽減させる助けでもあるのだ。腸内に棲息する細菌たちはそうした麻痺性の物質を自ら産生するだけでなく、宿主の脳や遺伝物質に直接介入して、ヒトの感情に多大な影響を及ぼすセロトニンやアドレナリン、ドーパミンなどの神経伝達物質の体内濃度を調整していることが、近年明らかになってきている。
 クロストリジウム属の細菌が産生する「プロピオン酸」という短鎖脂肪酸は、ヒトの健康と幸福に密接な関係をもつ物質だが、工場で大量生産されるパンなどの防腐剤としても用いられていて、そうしたパン製品は自閉症を患う児童が好む食べ物であるのだと云う。自閉症患者は食べ物の好き嫌いが激しく、平均的な非患者よりも特定の記憶保持力が強い傾向があるとされる。プロピオン酸は高齢者の認知機能低下に拍車をかけているとの研究もあるため、はっきりしたことはまだ分からないが、ヒトの記憶の忘却を促す作用をもち、さまざまな記憶の忘却が助長されることで、特定の記憶がきわだって固定される現象が生じるのではないかと推察される。
 ある種の微生物は、自分たちにとって利益のある食べ物を宿主のヒトが二度、三度と摂取するよう、さまざまな手段を用いて誘導している。プロピオン酸がもつという記憶の忘却を助長する作用は、ヒトの脳裡にある記憶の細部、微妙なニュアンスを忘却させ、刺激のつよい印象だけがきわめて断片的に保持されることで観念の固定化を生み、似たような行為の「反復」へとヒトを誘導するために用いられているのではないだろうか。常日頃ヒトが慣れ親しんでいる「周期としての時間」(時刻、日付、曜日などの周期的反復)という概念の発生には、微生物たちのこうした営みが密接に関与しているように思えてならない。
 生理期間中の女性は、糖の多く含まれた食品を欲する傾向にあるとも言われているが、これは無意識のうちに嫌氣性細菌の活動を助け、麻痺性の物質を体内に増やすことで痛みや不快感を覆い隠そうという意図が働いている。血糖値の上昇はプロピオン酸による認知機能低下に影響を与えるとの研究結果もあるから、そこには記憶の忘却を促す作用も含まれていそうだ。食物繊維の豊富な食品でなく、糖や炭水化物の多く含まれた食品を過剰に摂取すると、食物繊維を分解することでエネルギーを得ている「バクテロイデス属細菌」(Bacteroides)などは食べるものがないため、ヒトの腸壁を分解して食べることになる。そうして腸壁に隙間が生じると、クロストリジウム属細菌などが産生した麻痺毒はヒトの血中に流れ込みやすくなり、病原菌が体内に侵入する機会も増えるため、自己免疫疾患を生じがちだ。
 腸内における嫌氣性細菌のうごきが不穏で、麻痺性の物質が各所にばらまかれたヒトのからだは〈ディスバイオシス〉に陥り、皮膚やリンパ周辺などの常在微生物叢にも不調和をきたしやすい。そのため、むくみや吹き出物、肌の荒れ、肥満といった特有の症状が目立ち、このようなからだは結果として酸素の欠乏した状態を招きやすく、自らの意志に反した行動に流れがちだ。こうした状態におかれたヒトは、判断の基準が極端から極端へと飛躍する傾向がある。これは宿主だけではなく、微生物も同様に混乱をきたしていることの現れなのではないだろうか。ある微生物が過剰に増殖すると、突発的に別の微生物の過剰増殖が引き起こされるため、微生物相互の関係、微生物と宿主としてのヒトとの相互作用の混乱がおさまりにくい。一見不条理にも思えるヒトの行動の多くは、こうした微生物たちの盛衰に大きく影響されていて、ヒトが心に思いえがく「母なる自然の不条理」はこうした混乱から生じた幻影であるのだと言える。


  三つ巴の均衡



 ジェイムズ・ラブロックの提唱した「ガイア理論」によって、地球がひとつの生命圏であるという考え方は広く認識されて久しい。ギリシア神話の地母神ガイアは、天の神ウラノスによって異形の息子たちが幽閉されたとき、末子であるクロノスを遣わしウラノスの男根を切断させた。王位を継いだクロノスもまた暴君となり、ガイアはゼウスに異形の息子たちの幽閉された場所を教える。ゼウスは異形の神々を幽閉から解き、彼らの力を借りることでクロノスを退け、世界は均衡をとりもどしたのだとされる。
 クロノスは農耕神、その息子ゼウスは天空を統べる神として崇められ、ここには天と地の二項対立と主導権の入れ替わりが述べられている。地母神ガイアは大地を象徴する神格であり、大地を統べる農耕神クロノスはその嫡子だと言えるが、すべての母であるガイアは時として天を治める息子にも力を貸す。ゼウスに助力することとなる異形の息子たち、ヘカトンケイルとキュクロプスの一党は地底深く閉じ込められた強大な自然力を象徴し、ここにおいて天空、地上、地底という三つ巴の世界が示される。
 ヒトの体内と同じく、土壌の生態系においても好氣性微生物、嫌氣性微生物、そして中間的な通性嫌氣性微生物たちが均衡を保ちながら棲息している。土壌中に存在する細菌は好氣性から偏性嫌氣性までのさまざまな種類を含み、狭義の放線菌として知られるストレプトマイセス属(Streptomyces)、人体にも棲息しているバシラス属(Bacillus)の枯草菌(B. subtilis)やセレウス菌(B. cereus)、プロテオバクテリア門(Proteobacteria)の大腸菌や根粒菌(rhizobia)などの他、腸内細菌叢の主要な構成員であるバクテロイデーテス門の細菌群は、土壌や海洋などの環境にも広く分布している。
 土壌においてはこうした細菌、メタン生成菌などの古細菌、真菌(カビやキノコ、酵母)などの微生物が、窒素・リン酸・カリウムを含む多様な有機化合物を蓄積する役割を演じており、温度、湿度、酸素量の増減といった環境変化によって微生物が死ぬことから蓄積されたエネルギーは土壌に放出され、それを植物が利用していると考えられてきた。土壌の微生物叢が多様であり、かつ数が多いということは、風雨によって流出しやすいエネルギー物質が土壌のなかに豊富に保持されているということであって、その多様性は環境変化への対応能力の柔軟さを補償する。ヒトのからだの微生物叢も同様に、その多様性によって健康の維持に深く関わっている。
 そのほとんどが好氣性微生物である真菌の多くは、植物と共に菌根を形成し、宿主である植物の生育に必要な窒素やリンなどの化合物を探し集めて供給するかわりに、光合成で固定された炭素化合物を受け取り、土中に複雑で広大な化学的情報ネットワークを形成している。遺伝物質の即時的伝播をもふくめたこうした情報ネットワークはそのまま、一つの生態系であるヒトのからだにも直通している。ヒトの脳が化学物質の相互交換という「言語」で腸の微生物と会話を交わしていることは、今日じゅうぶんに科学的な事実として認識されはじめているところだ。

「微生物は自然のソフトウェアの役割を果たす――地質学的時間をかけて入念に作られた遺伝子指令の一覧表である生物学的コードをそなえた、生きているオペレーティングシステムだ。目立たぬように生き、なくてはならないシステムをはたらかせている微生物は、われわれの祖先が誕生した太古の地球を形作り、私たちの知るこの世界を今も動かしている。」(『土と内臓』デイビッド・モントゴメリー+アン・ビグレー著/片岡夏実訳/築地書館 2016/p. 323.)

 動植物、微生物の相互作用が有機物や無機物を媒介としてかたちづくる情報ネットワークは、世界中を覆い尽くしており、それを一つのOSのような働きをもつものとして考えてみるなら、地母神ガイアの名で呼ばれていた「何か」は眼に見えないかたちで実際に存在し、自然界をうごかす根源的な力として、今もこの世界を存在させつづけているのだと言えるだろう。何かの要因で特定の微生物が過剰に増殖すると、生きている化学情報ネットワークは即座に均衡をとろうとして働き、それは氣象や地殻変動による異変として表面化することがある。


  〈人間〉という状況



 周期としての時間という観念のなかで、反復的な行動を基礎に社会を営む主体としてイメージされるところの〈人間〉とは、自然の一部であるヒトが多様な関係性のなかでつくりだした「自閉症的な状況」であり、僕たちヒトは本質的に自然そのものである。ヒトを含む多様な生物同士の、有機物や無機物を介する相互作用がかたちづくる複合体としての自然に生じた〈人間〉という状況は、どんな関係によって発生し、全体としての自然のなかで何を意味し、どんな作用をもつのだろうか。
 ヒトの自閉症的な状況である〈人間〉は、ある観点から言えば、ヒトが野生動物と特殊な関係を結び家畜化、あるいは愛玩化、実験動物化し、同様に野生植物と特殊な関係を結んで栽培化したことから生まれた関係性の産物である。行為は必ず双方向的な力をもつため、家畜化することでいつしか家畜化され、栽培化することで栽培化される。牧畜や農耕の導入による社会構造の変化を俯瞰してみれば、こうした双方向性はたしかに見いだされるものだ。愛玩することで愛玩され、実験に用いることで実験に用いられる。
 ヒトが〈人間〉として形成している、半ば架空の共同幻想である「社会」は、そのような関係の複雑な積み重ねによって構築されたものだと考えてみることができる。ヒトと動物、ヒトと植物がさまざまな微生物をなかだちとして結んだ特殊な相互関係の重層化によって〈人間〉という閉じた状況は発生し、周期としての時間のなかでその関係を維持するための「仮想的な管理者」として機能している。〈人間〉は「社会」という迷宮の夢に番人として仕えるミノタウロスのようなものだ。牛でもなく、人でもない夢の亜人が、牧畜という閉じた関係性を管理している。
 視点を少しだけ変えて言い換えてみるなら、〈人間〉という状況は多様な微生物たちがかたちづくる化学的情報ネットワークを介してヒトと動物、ヒトと植物が結んだ特殊な〈共生体〉の「観念的なあらわれ」であり、それは樹木と別の植物が菌根菌を介して形成するひとつの共生関係についての「印象」に似ている。たとえば、湿った森の林床に生える「ギンリョウソウ」(銀竜草 Monotropastrum humile)という菌従属栄養植物は、光合成を行うための葉緑素をもたず、周囲の樹木と菌根共生しているベニタケ属の菌類と共にモノトロポイド菌根と呼ばれる共生体を形成することで、樹木と菌類双方から炭素や窒素を含む養分をわけてもらいながら生存している。
 ヒトと動物、ヒトと植物が微生物との化学的共生を介して結んだ〈共生体〉の「観念的なあらわれ」である〈人間〉は、ヒトという存在の本質ではなく、一見すると白く透明がかったキノコにも思えることから「ユウレイタケ」という異名をもつギンリョウソウの姿は、そうした人間社会の夢幻的ありさまにどこか通じるものがあるようにも思う。けれども、そのような物の見方が幻であり、ギンリョウソウとヒトのもつ本当の共通点は今はまったく思いもよらず、幽霊めいたその印象だけが僕の脳裡を独り歩きしている。〈人間〉とはヒトの記憶の微妙なニュアンスが忘却され、刺激のつよい印象だけが固定観念として独り歩きするようになってしまった自閉症的な夢だ。
 ヒトがヒトであることの本当の意味、それは生態系に相互関係の更新をもたらすことであり、循環する森林生態系にヒト以前とは別の可能性を見出すことにあった。ホモ・サピエンス (Homo sapiens)としてのヒトが、自然のなかにひとまず見出だした自らの居場所は、ヒト以外の種が恋いねがった桃源郷を、いっとき具現化してみせることにあったのかも知れない。犬や猫、豚、牛、鳥たちはいつでも温かく、食べることに不自由のない暮らしを夢見、植物や微生物たちは庇護されてどこまでも殖えつづける生を夢見た。けれどもそれは道理にかなう理想郷ではなく、夢見ることの叶わない夢であるため、ヒトと共生関係を結んだ多くの生き物たちは、叶うことのない自由の牢獄に自らを幽閉する事態を招いてしまったことに氣づく。こうしてヒトのひとつの役割は終わり、僕らはホモ・リハビリス (Homo rehabilis)として再び、自然へと還る道を歩みはじめた。
 大規模に環境を変容させうる力を与えられ、無邪氣にもそれを行使してきたヒトの還りゆく道は、この星に暮らすすべての存在の願いに氣づくことからはじまり、そこに示されたすべての願いをひとつに重ねあわせて〈大いなる意志〉を見出だすために、自らの内なる多様性、心の森の生態系を見つめ、共生している存在と対話し、自分自身の本当の意志の所在を、たしかに見定めてみることにあるのだと言える。

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参考文献|References

『大地の微生物』服部勉/岩波新書 1972
『土つくり講座Ⅳ 土壌の微生物』都留信也/農山漁村文化協会 1976
『カビと植物の世界』小沢正昭/研成社 1987
『土壌微生物の基礎知識』西尾道徳/農山漁村文化協会 1989
『生物界をつくった微生物』ニコラス・マネー/小川真訳/築地書館 2015
『現代思想 vol.44-11 微生物の世界』/青土社 2016
『腸科学』ジャスティン・ソネンバーグ+エリカ・ソネンバーグ/鍛原多惠子訳/早川書房 2016
『あなたの体は9割が細菌』アランナ・コリン/矢野真千子訳/河出書房新社 2016
『土と内臓』デイビッド・モントゴメリー+アン・ビグレー/片岡夏実訳/築地書館 2016
「腸内細菌叢とdysbiosis」馬場重樹・ 佐々木雅也・安藤朗/『日本静脈経腸栄養学会雑誌 Vol.33 No.5』/日本静脈経腸栄養学会 2018
『菌根の世界』齋藤雅典編著/築地書館 2020
『聖なる魂 現代アメリカ・インディアン指導者の半生』デニス・バンクス+森田ゆり/朝日文庫 1993
Tsuji H, Matsuda K, and Nomoto K. "Counting the countless: Bacterial quantification by targeting rRNA molecules to explore the human gut microbiota in health and disease." Front Microbiol, 2018.
Hancocks, Nikki. "Gut-brain study identifies serum propionic acid affects cognitive decline." Nutra Ingredients Europe, 2022.

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