Homo rehabilis【2】冬の挿話:未来の子どもと降りてくる空海


 春まだき、冬の日。
 二十代の半ばに差しかかろうとしていた僕が、たしかな何かをもとめ都内を徘徊していたある時、ふいに再会した高校時代の恩師から、起業したての小さな出版社の社長を紹介された。その、三十過ぎの若い起業家であった社長に誘われ、この当時、若手の代表といえるだろう立ち位置にあったひとりの書家のアトリエ兼事務所を尋ねる。二〇〇六年のことだ。
 書家の名は、柿沼康二。一九七〇年の生まれで栃木県出身だという彼は、若くして単身渡米し、ニューヨークで個展を開いたキャリアをもつという、この時よわい三十五の〈前衛〉書家だった。
 いまではもう、あまりに薄らいでしまった、遠い記憶をたどって思いかえしてみれば、このときの僕は「前衛書家」と呼ばれるような人物にはそれほど興味が無く、ただ、さむざむとしたコンクリートのビル内にある彼のアトリエ兼事務所が、目覚めかけた都会の朝の、ひやりと濁った空氣に包まれているその感触の重みを、とても小さな実感のひとつとして仄かに感じなおしてみることも、今ならできるような氣がする。
 記憶のなかの実感をたよりに、金属のノブの湿った手触りを探る。
 鈍い音をたてて開いた、鉄製のドアに招き入れられてなかを覗くと、そこには金色に髪を染めた、短髪の男性がいる。どうやら彼が柿沼康二さんのようだ。出版社の社長と、もう一人の同行者であるカメラマンと共に、ところどころに半紙の積み重なったアトリエにお邪魔し、ぽつぽつと、互いが互いに手探りな会話に僕も加わる。
 上下する声のトーンを縫いながら、カメラのシャッター音がいくぶん控えめに響いて、その場の誰もがまだ半ば睡りのなかにいるような、コントラストの低いフィルム写真にも似た、どこか懐かしげな朝の時間が流れていく。
 一時間ほどのインタビューのあと、柿沼さんは何氣なく言葉を継ぎながら「臨書」を始める。その姿に僕は、思いがけず惹き込まれてしまった。
 書が書かれて、その手の、腕の、肩の、背中から腰へとつづく流線の、奇妙なほど静寂に充ちた、時間そのものになってしまったような書家のからだ。そのなかで暴れ狂っている、時間を超えた美しさ。その身のこなしは、驚くほど能狂言、古典藝能を舞う役者のからだに似ていた。僕はたどたどしい言葉で、その実感を彼に伝える。
「和太鼓集団の鼓童と一緒にパフォーマンスをやったときにも、身体の使い方が同じだと言われましたね。空手の型に全く同じ動きがあると言われた事もあります。」
 最大限に身体を使いこなす時、ギリギリの所でとる姿勢、その動きというものは皆共通しているのでは? と柿沼さんは言う。
 点も線も、何も書かれていない瞬間、紙から筆の離れている時間にからだが画いている軌跡、それを彼は「虚」とも呼ぶし「間」とも呼ぶ。そしてまた、「一言足りないことの美学」とも。その間合いはおそらく、古典と呼ばれているものにみられる普遍的な何かで、〈本質的な曖昧さ〉としか呼びようの無いものだ。何も無いはずのところで、何かがたしかにゆらいでいる。
 彼が僕たちの目のまえで始めた「臨書」は、書の古典を一字一字模写していく行為を言う。
「個展で臨書姿のビデオを流していると、百人中百人が見入っていますね。手品みたいだって言われたこともある。ただ字を書いているだけなのに。書かれた物には慣れているけど、書いている所を見たことが無い人が多い。伝統的な勉強をやっていない人には、解らないことがありますよ。」
 書は見て味わうもの、という固定観念が吹き飛ぶほどの、何とも言えないすがすがしさ。臨書をしている時の柿沼さんのからだには、そんな風通しの良さがあった。なぜ書家が、巨きな筆を振るってパフォーマンスするのか? そんな疑問への、確かな答えがそこにはある。「前衛」と「書」という、一見相容れないように思える肩書きの向う側に、「古典」とは何か、という問いへの、最も本質的な手がかりを、彼は僕に見せてくれたのだった。
 
「臨書」
――書にのぞむ。向き合うこと、つかること。
――書をのぞく。覗き見ること、立ち寄ること。
  淵を見下ろしながら、底深く降りて行くこと。

 臨書とは、ただ古典の筆致をなぞり真似するだけの作業ではない、と柿沼さんは語る。一字一画一点から、書き手の時代環境性格心情もろもろの事を読み取って、それを筆先からとり込んでいく。書の前に立ち、書を覗き込み、書に向き合い、書に撃つかっていく姿勢・・・・・。
 弘法大師空海の書を彼が臨書していく時、空海もまた彼に向き合い、彼の内なる淵へと底深く降下していく。それは空海の書き残した、真言密教における大日如来と修行者との相互交歓の光景でもある。いま思えばまさに、このときの僕はそれを目のあたりにしていたのだが、当時の僕はまだ、それを知るよしもない。
 けれどもたしかに僕は、この時も〈光景の彼方〉を垣間見ている。記された書の向こう側で、記されることのない何かが、ひそかに生きて、ゆらいでいた。
「・・・・・徹底的に、体の中に、頭の中に、それを染みこませる作業。模倣をやりすぎると、オリジナルが出てこなくなっちゃう時がある。」
 こう語る程に没入してしまう臨書なのだが、柿沼さんにとってそれは〈愉しい〉時間なのだと言う。僕には、そう語る彼のあかるい声の向こうに、筆先から歴史を跳び越えて過去に遊ぶ、書道という名の〈タイムスリップ〉を楽しんでいる、未来の子どもの姿が見えた。


次へ

人気の投稿