Homo rehabilis【3】精霊について
日本各地の神域を訪れた際に、時として皮膚や視覚におぼえる神秘な空氣は、過度に人の手の入ることのない森の、活きた土壌に棲む微生物が醸 す薫りや物質に因 るものが多いと思う。一度でも自らどぶろくをこさえた事のある人になら、活きた醗酵物を摂取したときのあの神秘な感じが、わかってもらえるだろうか。
以前暮らした家の裏山は宮内庁管轄の区域もある小高い山で、あまり人の通わぬむきだしの山道が幾筋もある。もみぢ葉の散り積もった後の初冬の山は、蹈み込んでみると意外に暖かい。冬だというのに蝿が飛び、枯れ葉のつもった土を蹈めば甘酸っぱい薫りがたちあがる。山そのものが低温醗酵しているのだ。
初冬の山に蝿の飛び交う光景は一種異様でもある。それは僕に根の国、死者の国の事を想い起こさせる。日本語で精霊、セイレイ或いはショウリョウと呼ばれるものの一方の意味は祖霊、死者の魂の事だ。精霊を半分は微生物であるとしつつも、僕は霊魂を否定する立場ではない。自然科学では解けぬ神秘はあり、冬は死で充ちている。
海のあなた、山の奥處 から死者の魂は時をさだめて繰返し訪れるのだと謂 う。古典藝能の演目「紅葉狩」の主役は平維茂 ではなく美女に身をやつした鬼であり、僕たちは鬼が敗れ去ることを知りつつ、幾度も鬼が蘇りくることを期待し、熱狂する。死も死者も畏ろしい物だが、人は何故だか死者と共にしか生きられない。
精霊の一面である死霊、鬼、もののけの類 の本体が微生物であると仮に考えれば、視ることの叶わぬ者の姿を、人はどのようにして視ただろうか。きのこやカビ、粘菌などの子実体は別として、微生物を人の肉眼で視ることはできない。たとえばそれは、共感覚による知覚であったのかもしれない。共感覚者は、音や薫りと同時に視覚をおぼえるのだという。そこには僕たちの裡 にひらかれている、不可思議で多面的な実感の手触りがある。
二〇一三年の六月に、自然農の不耕起水田にお邪魔して田植えの手伝いをさせてもらう機会があり、それ以来、生と死、循環、いのちの多様性とは何か、あらためて考えるようになった。
草をのばし、地に刈り敷くだけで耕起されることのない田の土では活発な醗酵が起こっており、ただそこに立って居るだけで眼が冴え、足元から力の湧いてくる、柔らかに馨 しい場所だった。田植えの便のために少しの水を引かれ湿った田には、図鑑でしか目にしたことのない昆虫、蜘蛛、両生類、微生物等が満ちみちており、天与の多様性が生みだす生と死のダイナミックで繊細な力がそこにはある。
天然の生物多様性によって菌類、 微生物群が活発化した不耕起の土に立つと、「草木 国土 悉皆成仏 」という感じがすっと降りてくる。菜食主義者は野菜と穀物のみを食べ動物を殺す事を憚るが、トラクターで暴力的に耕起された土の中では多くの生物がその命を失う。成仏とは命のつながりを取り戻すことの謂 だ。いのちのつながりの神秘を知る鍵がすなわち精霊であり、生々流転、生者死者の境界を游々行き交いながら、眼には見えぬが確かにある鬼 =魂 ≒微生物 の領域として、根の国、妣 の国はいつでも僕たちの前に開かれている。
心の森を祀る
ことばとは、おととかたちをつなぐたましひのをどりだ。
山の木々へとなげかけた聲 の反響、こだまを通例「木霊」と書くはただ聲 をかへす恠 異の姿を想像したのではなく、聲の音霊 を運ぶ植物態の精霊に名をあたへたものと考へうる。聲の音霊が物のかたちにすがたと振舞ひを齎す為草 をことばと言ひ、その最も端的なあらはれが歌であった。古くよりヒトは歌によって精霊と通じ、山からかへる木霊により自らのすがたと振舞ひを定めた。
和歌を詠むことの意味は儀式にあり、そのために形式がさだまり作法がある。神社の鳥居とまさに同体のもので、そこを通らねば行くことのかなはぬ道をひらく門だ。定型を破れば自由はあるが、自ら決して辿り着けぬ場所をつくりだす行為でもある。安易な自由は定型/不定形を行き交ふ粘菌的回路を塞ぐ。自由とは「自らに由 る」ことであり、『後漢書』に記された「威福自由」は「威福をほしいままにする」と訓 まれ、「自らの欲求のままに威圧したり福徳を施したりする、勝手氣ままなふるまひ」を表すと云ふ。
定型とはただの半面だが、それゆえ定型を身にならはぬものは世界の半面しか観ることができない。なぞり、まねび、ならふこと。波立つ海の光に游 ぶ表面と、深海の底深く謎めいて闇 い処、その二つをあはせてヒトはウミと呼んだ。ウミとは産みであり、膿みであり、幾度も淀んではまたあらたにながれる流体の運動の謂 だ。浅瀬だけを見るものは、いつでも妙に煌めいて闇 い。
定型とはつまり蕈 でもある。和歌とは心の森に生ふる蕈、植物態の精霊である菌達が築くかりそめの城だ。それは建造物であって、実体は別に森を游ぶ。
植物態の精霊である菌類が儀式をおこなふ社殿が蕈 であり、菌類とは森を祀る神官、禰宜 のやうな存在と言へよう。和歌もこの国の鳥居や社殿もその本質は菌類の儀式をまねぶものとおもへば、多くのことに得心 がいく。
そうして、ヒトと菌とは本来同根、同体のものが二つに別れたとも考へうる。仮にそうと定めてみて事象世相をながむれば相似たること頗 る多く、菌の行ひにまねびてヒトの行く先をまねくことも出来るかとおもふ。われもただ一本 の蕈 なりと念ずれば、森への鳥居密か嚴かに眼にたつ。
神話と言語精霊
ヒトとはコトバという菌類、微生物に似た生態をもつ「何か」に寄生され、共生生活を送ることになった哺乳類の一群を指す。そう仮定して考えてみたい。
僕たち日本人の因 ってたつ祖 たちは、ヤマトコトバというある種の菌類、微生物複合体、時空を超えて聯関 する相互連絡網の変化してやまない動態のそれぞれを・・・のカミ、ヤホヨロヅノカミと呼んだ。『古事記』に「葦牙 の如く萠え騰 る物によりて成りし神の名は宇摩志 阿斯訶備 比古遲 神 」という一節がある。ここに書きあらわされたウマシアシカビヒコヂは「美しく萌え出づる葦の芽のような神霊」であるとされ、古人が葦牙、つまり植物の芽をなぜ「カビ」と呼んだのか、確かなことは判らないけれども、黴 の語源は醸造を意味する「醸 む」にあるともされることから、カミとカビとが相通じ、古来より密接に関係していただろうことが知られる。
植物の種子が発芽するメカニズムには温度、水分、光などとともに微生物の存在が密接に関わっているように思えてならない。種子の内側で、未分化な内部組織とともに休眠状態にあった菌(微生物)が特定の条件によって目覚め、蓄えられた炭水化物を糖に、タンパク質をアミノ酸に分解することからエネルギーを生み、発芽成長がなされているのではないだろうか。
畑に種をまく畑苗代 で稲の苗作りをしてみて知られたのは、苗代の土に播いた種籾が発芽する際にもっとも甘く、もっともエネルギーを発する瞬間があるらしいことで、周囲から苗代の様子を仔細に観察している雀は、その時を待って種子を啄む。少くとも稲に関しては、種子が発芽するプロセスにおいて炭水化物が糖に分解されるだろう瞬間があり、その分解を行っているのは主にコウジカビではないかと推測される。つまり稲は、種子の段階からその生を終えるまで、コウジカビを主とした菌類複合体と共生関係にあると考えられるのだ。そこにこそ古人が植物の芽を「カビ」と呼び、菌類である「カビ」が「カミ」に通じることの秘密がひそんでいるように思う。
そう思えば、キリストと酵母菌の関係も興味深い。キリストが「我が肉」として示したパンは無醗酵のもので、酵母で醗酵させたパンを食べることは禁忌にあたるのだとも言う。ユダヤの神は酵母と仲が悪いのだろうか? そうとも言い切れない。キリストの血の表れとしてある葡萄酒は、酵母の働きなくしては生まれ得ないからだ。愛を語る「キリスト意識」を醗酵的にみると複雑怪奇な部分がある、というよりは、キリスト意識そのものの複雑怪奇さが、醗酵的解読によってより露わになるのだ、と言えるかもしれない。
人体にはかなりの数の酵母が棲んでいる。水虫の原因菌も酵母の一種だ。酵母はカビと同じく真菌の仲間ではあるが、その生態、存在のありさまはカビとバクテリア(細菌)の中間に位置している。カビと酵母は、醗酵のある側面から見れば対立項だ。カビと酵母と聖書には、どこかしら切っても切れない関係がある。そこには女性の子宮を司る「聖母マリア」としての乳酸菌も関与しているだろう。
菌類と共生状態にある植物といえば、真菰 が思い浮かぶ。マコモは単体では種子で増殖するイネ科の植物だが、黒穂菌 と呼ばれる菌類の一種(Ustilago esculenta)に寄生されるとその生態を変え、マコモタケと呼ばれる菌瘤をかたちづくるようになり、土中の根で越冬する植物になる。黒穂菌に寄生され共生状態にあるマコモと、コトバと共生状態にあるヒトとは似通った性質をもつものだ、と考えてみよう。言語 とはある種の精霊である、と言い換えても良い。国文学者・折口信夫は、古代日本人のいわゆる「言霊信仰」を次のようなものであると捉えた。
「ほむ・ほぐと言ふ語は豫祝する意味の語で、未來に對する賞讚である。其 語にかぶれて、精靈たちがよい結果を表すと言ふ考へに立つて居る。言語によつて精靈を感染させようとする呪術である。其上に言語其物にも精靈の存在して居るものと信じて居た。「言靈 さきはふ」と言ふ語は言語精靈が能動的に靈力を發揮することを言ふ。言語精靈は、意義どほりの結果を齎すものではあるが、他の精靈を征服するのではない。」(「國文學の發生」/『折口信夫全集 第一卷』/中公文庫/p. 74)
言語がある種の精霊であるのならば、コトバによって語られた神話の構造は、神のかたち、その姿であるとも言える。構造言語学の手法を用いて神話を構造分析した人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、その大著『神話論理』そのものが何であるかについて、それ自身の中でこう言明している。
「わたしは、ひとびとが神話の中でどのように考えているかを示そうとするものではない。示したいのは、神話が、ひとびとの中で、ひとびとの知らないところで、どのようにみずからを考えているかである」(『神話論理Ⅰ 生のものと火を通したもの』レヴィ=ストロース著/早水洋太郎訳/みすず書房 2006/p. 20)
神話の構造が「みずからを考え」るものであるならば、それはもはや単なる構造ではなく、機能と自律性をもった「生命」だと言えるだろう。レヴィ=ストロースが探求した「野生の思考」(神話の思考)とはつまり言語精霊、言霊の営みであり、ひとびとに寄生したコトバが、ひとびとの知らないところで考える有り様がそこに示されているのだとも読みうる。そして、神話を語る真の主体であるところの言語精霊 はおそらく、ヒトのからだに寄生、あるいは共生している微生物ほぼそのものにも見える「何か」なのだ。
オーストラリア大陸先住民が共有している神話の論理構造を象徴的に言いあらわした〈ドリームタイム〉という概念は、端的にいえば「わたしたちヒトの生は、大地の見ている夢である」という内容だとされる。たとえばこれを、現代的な分子生物学の知見をふまえて読みなおしてみるなら、微生物主観――微生物やウイルスの側からみた僕たちヒトの営みの光景であると言えるだろう。
ヒトのからだを生きていくために機能させている細胞の約九〇%は微生物やウイルスのもので、遺伝情報の比率で言えば約九九%が細菌由来のものであるとも云う。ヒトを含む多細胞生物の祖先は、元を辿ると細菌と古細菌であるとの理論もあり、彼らの側から見れば僕たちヒトのからだは彼らの一部、あるいは彼らが暮らす仮想的な国家のようなものであると感じられるのだろう。
日本国という観念が僕たちにとってひとつの共同幻想に過ぎないのと同じように、彼らの一部は僕たちの生をある種の幻想、夢として捉えているのではないだろうか。けれども当然、これは彼らから見た世界の有り様であり、僕たちヒトは彼らの夢ではなく、たしかに生きて存在しているのだと思う。
差異の河原で
性の交はりを云ふ「交合」は「交 ひ合ふ」ことを意味し、雌雄陰陽両極の二者が時を得て交 ひ、遂には合一することからあらたな交 ひを産みなす行為を表す。交 ひが時を得てまた交 ひを産み、互ひに交錯しどこまでも織りなされてゆく様をヒトは「界、境 、世界」と呼んだ。
自分からは決して見ることのできぬ真交 ひは畏ろしいものだが、ヒトはその昏 さに時として奇妙なあこがれを覚える。真交 ひへのあこがれが過ぎると自己同一性を失ひ、いのちのはたらき、魂を失ふ。「あこがれ」とは古語で魂の游離を意味することばだ。
触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚といふ五感が鈍ったからだはいのちのはたらき、自己同一性が失はれかけた状態、魂の游離してあこがれ出でてゐる様を言ひ、病ひとして古くから恐れられて来た。ヒトは自らの真交 ひを氣に病むあまり、魂を游離させてそれを認識せんと欲し、結果己が全能であるやうな錯誤に陥る。
自己同一性を半ば失ひつつある、いはゆる魂の遊離したからだがもつ独特の状態は、通常からだのすみずみにまで行き届き循環してゐる生命エネルギーが停滞してをり、痛みを痛みとして感じえない程に五感が鈍る。この状態の先にいはゆる死がある。
つまり魂とは、からだを機能させてゐる生命エネルギーの運動、氣 の流れに他ならないのだが、自己同一性が失はれていくと氣 の流れが停滞する。その段階では血は流れ、心臓も動いてゐるものの、本人の五感はどこまでも鈍り、からだは重く、操り手のゐない人形のやうな物体に近づく。つまり物体であるからだを機能させるためには本人が本人であるといふ自覚、自己同一性が不可欠であることが知られ、この現象は霊魂の存在なしにはどこまでも説明しえない。物理的には過不足のない人体が、自己同一性を失ふことで機能しなくなってしまふ、これはどこまでも不思議だ。睡眠状態とも明らかな差異が見られる。
このやうに自己同一性が失はれかけた、ある種の全能感につつまれた状態のヒトはさまざまに本質をつくことばを吐くことがあるが、それは過去の誰かや、あるいは時として宇宙人などと云はれる人格をもつ。ここに云ふ宇宙人とはおそらくは未来の何ものかを意味し、自己同一性が失はれ、ことばの深みに浸透した魂は共時性をもち、過去・現在・未来の別がなくなる。
このことから、宇宙は通時的であると同時に共時的であることが窺ひ知られる。ことばとは宇宙にはりめぐらされた共時的な存在、生命エネルギーをつなぐ相互連絡網であり、それは量子力学が言ふところの「非局所的長距離相関」をもつ。ことばはつねに時と場を超え、聯関 してゐる。
ヒトがことばとのつきあひを誤ると、あちらにつれていかれる。時と場とのはざまに呑まれる。「つきあひ」とは仕 へあふことであって、ことばとヒトが上下なく互ひに仕へる態度が大切なやうだ。ことばを道具として使役するのも、ことばに人形として使役されるのもあやまりであり、互ひに敬ひ仕へあふことから導かれるすがたが、あるやうに思へてならない。
微生物は語る
国文学・民俗学者で和歌や詩、小説を物 す創作家でもあった折口信夫が大正十一年に発表した未完の小説『神の嫁』の中で、奈良は春日大社の祭神・武甕槌命 は、憑坐 の童子の口を借りてこう語った。
「人間と話す間の一時 は、おれたちの世界の百年だ」
一般に、神は人より命の長いものだと思われているもので、時間の流れはむしろ遅くすら感じられるはずだろうに、当時三十五歳の折口信夫がどのような考えでこの台詞を筆にしたかは定かでない。が、この「一時 」を仮に文字通りの意味で今の二時間だとして計算しても、二四×三六五×一〇〇÷二=四三八〇〇〇、軽く四十数万倍、一時をほんの数十分の事と解せば、ヒトの百万倍近い速度の時間感覚を神々は生きているのだ、と言う話になる。これは何とも奇妙な感覚だ。
世界にあまねく微生物を「微生物」の一言で括 ろうとするにはその範囲は余りに広く、星の数ほどもの多様性があるため、その寿命をうんぬんするのは机上の空論以外の何ものでもない。としても、仮に、土壌中に生息する微生物の寿命は短くて数時間、長くて数日、平均すれば二時間前後なのだとも言われる(あくまでも土壌微生物における試算。腸内微生物に関しては良くわからない)。そもそも個体という概念を当てはめることも不可能に思える微生物であるから、ここではただヒトにとっての二時間前後が、或る微生物の一個体の一生(ヒトでいえば八〇年ほど)にも等しい、という、その速度の物差しとして示しておきたい。
小説『神の嫁』の中で神の語る、神の世界の時間感覚がほぼ微生物の世界のそれに等しい、という事をここで述べて、それを「神≒微生物という事実」の例証とするのは、余りに覚束ない、小説などはただ架空の夢想、絵空事で、科学的根拠などひとつもありはしないだろう、と、僕もそう思うのが無難と感じるものだが、事実は小説よりも奇なりで、おいおいこれも科学的に立証されてしまうのだろうことが、今となってはむしろある意味恐ろしい。
「中世の書物を見ていますと、「神は毛穴に宿る」という表現にゆきあたることがあります。人間の体の表層にあること、膨大な数であること、これがポイントですね。さて「毛穴に宿る」という特異な働きをリアルに示しているのは「疫神」ではないでしょうか。微細で膨大な疫霊が毛穴に宿る。「伝染」というおそろしい機能を見事に言い当てています。
「毛穴に宿る神」からもう一つ見えてくるのは、神の集団性ということなんです。集団性を最大の特性とする神たちの存在。〔・・・〕口伝書の中では、天照大神は人格神でも単体でもなく、曼陀羅を形成する星々の集合体でした。
記紀の世界を離れて郷村などの信仰や儀礼を見ますと、荒神 や土公 神など、集団魂、グループソウルの存在が非常に多いです。固有名ではなく、一大集団を形成して、変容するのが特徴で、運動性そのものが神霊として発現したといえるかもしれません。」(「神は毛穴に宿る」山本ひろ子/『響き合う異次元 音・図像・身体』川田順造編/平凡社 2010/pp. 43-44.)
ここに云う「毛穴に宿る神」とは、主に京都祇園八坂神社の本来の祭神として知られる
ともあれ、このような一致を感染症の猛威と神の霊威を混同してとらえた迷信のたぐいと片付けるのはたしかに容易い。けれども、祭文などの口に出し唱えられたことばの記録、民間伝承の領域における皮膚感覚に即したことこまかな口述筆記の多くが、近年の分子生物学的手法を用いた微生物研究の導きだしつつある成果と合致することは、それほど珍しいことではないと言える。たとえば、英国の人類学者J・G・フレイザーが膨大な民族誌文献を渉猟してまとめた大著『金枝篇』("The Golden Bough," 1890.)に記録された、
「ある動物が生きて動いておれば、それはその動物の中にそれを動かす別の小さな動物がいるからにほかならぬ。人が生きて動くのは、彼を動かす別の小さな人間あるいは動物がその中にいるからにほかならないのである。」(『金枝篇(二)』J・G・フレイザー/永橋卓介訳/岩波文庫/pp. 69-70.)
という記述や、
「〔※エーヴェ諸部族において〕内在の精霊は口を通して身体から出たり帰ったりする〔ものとされる。・・・〕そこで、もし霊魂が出て行った場合には宿なし霊がその隙を狙って躯 に侵入する惧 れがあるので、その口の開き方に注意せねばならないとされている。このような事は、明らかに食事中に起こるものであると考えられている。」(同書 p. 108.)
などは、ヒトを含む動物と、その体を宿主あるいは寄り主として活動しているところの微生物の実態を良く言いあらわしている。また、
「〔※マレー人とダイヤ族は〕植物の組織の中には人間の身体と同様にある種の生命原理があって、ある一定期間を超えてその不在が永びけば植物は枯死するけれども、しばらくの間は別に致命的な悪結果を招くこともなく本体から完全に離脱することが出来る位に、それは植物自体からは独立したものだと彼らは考えている。この生命力はあるがなお離脱可能な原理は、ちょうどこれと同じく生命的ではあるが離脱可能な原理が一般に人間の霊魂を構成していると考えられていると同様である」(『金枝篇(三)』フレイザー/永橋卓介訳/岩波文庫/pp. 178-179.)
といった記録は、植物と「菌根菌」と呼ばれるキノコの仲間が形成するところの共生関係、ヒトと腸内細菌、環境中に存在する多様な微生物たちがかたちづくるある種の生態系のすがたを、かなり如実に述べあげているように思える。伝統的に言い伝えられてきた、眼に見えない「霊魂」と呼ばれるものの性質は、ヒトや植物と共生関係にあるとされる微生物たちの振る舞いに重なりあうものが多い。
「〔※琉球では〕靈魂をひつくるめてまぶいと言ふ。まぶりの義である。卽 、人間守護の靈魂が外在して、多くの肉體 に附著して居るものと見るのである。かうした考へから出た靈魂は多く、肉體と不離不卽の關係にあつて、自由に游離脫却するものと考へられて居る。〔・・・〕
大體 に於て、まぶい の意義は、二通りになつて居る。卽 、生活の根本力をなすもの、假に名付くれば、精魂とも言ふべきものと、祟りをなす側から見たもの、卽 、いちまぶい(生靈)としにまぶい(死靈)とである。近世の日本に於ては、學問風に考へた場合には、精魂としての魂を考へることもあるが、多くは、死靈・生靈の用語例に這入つて來る。
けれども古代には、明らかに精靈の守護を考へたので、甚しいのは、靈魂の爲事 に分科があるものとした、大國主の三靈の樣なものすらある。」(「琉球の宗敎」折口信夫/『折口信夫全集 第二卷』/中公文庫/p. 45.)
近年科学的に明らかにされつつある、ヒトの体内の微生物が圧倒的多数(細胞数の比率で約九〇%)として人体を操っている事実からすれば、冒頭に引用した神の台詞は、古代人の生まれ変わりを自認して、
そのようにして微生物たちは語る。けれども、「語り」は同時に「騙 り」でもあることを、胸に留めておく必要があるだろう。憑霊現象の際にある種の霊魂(神や精霊)が語る言葉は、嘘偽りであることがきわめて多い、と言われる。そこにこそ「架空の創作物」が事実を含みうるだろう奇妙な仕組みがあり、その構造の探求が今後の大きな課題として提示されている。その構造はおそらく、人類学者クロード・レヴィ=ストロースの見いだした〈神話変換の基本定式〉と、微生物のもつ〈遺伝子の水平伝播〉という特性とに関係をもつものであろうが、それに関する考察はまた後日、あらためて着手することにしたい。
次へ