Homo rehabilis【4】微生物、輪廻する森と身体


 この国の山と森、そこを母胎として育まれた循環的な暮らしを見直そうとするとき、大きな視座を与えてくれる考えのひとつに、植物学者の中尾佐助氏が提唱した「照葉樹林文化論」がある。
 照葉樹林文化とは、日本列島の西南部から台湾、中国大陸の中部、南部、インドシナ半島北部の山地を経て、ヒマラヤ南麓までつづくシイ・カシ・クスなどの照葉樹を主体とした森で暮らすヒトに共通してみられる文化の、複合的な在り方のことだ。照葉樹はツバキ科に特徴的な、厚みと光沢のある葉をもつ常緑の樹木を言い、神事に用いられるサカキ、種子としてドングリを実らせるブナ科の木本もくほん等を含む。
 この照葉樹林帯に特有の文化複合は、東南アジアの熱帯に起源をもつ「根栽農耕文化」が温帯に伝播し、その環境に適応することから生まれたと仮定されている。アワ・キビ・ヒエ・ソバ等の雑穀、陸稲、大豆・小豆等の豆類、サトイモ等のイモ類を栽培する焼畑農耕、クズやワラビの根塊を水にさらして食用にするアク抜き、漆・茶・蒟蒻の利用、麹や納豆菌の力を借りた醗酵食文化などによって特徴づけられ、いくつかの段階に区分される。
 国や言語の違いでなく、生態学的なひろがりにおいて文化を捉えなおすこの試みは、ヒトの歴史を自然環境のさなかに戻し、ヒトがヒトであることの意味を見出そうとするとき、より積極的な価値をもつ。


  森とヒトの生態学



『魏志』倭人伝に「山島に依りて国邑こくゆうをなす」と記されたこの島国は、水田稲作農耕のために山林をひらき、人口の増加に伴い平野部が開拓される以前は鬱蒼とした森に包まれた山が海に浮かぶ、屋久島のような自然がどこまでもひろがる場所だったと推定されている。
 樹木を主とした多様な植物と動物、鳥や昆虫、水、土をかたちづくる鉱物、眼に見えない微生物たちが織りなす循環する生のしくみ。物質循環と生物、環境の相互関係をその基礎におく生態学では、そのしくみを〈森林生態系〉ということばで表し、陸上における生命活動のひとつの典型と捉えた。

「陸上に現出する多くの生態系のうちで、森林生態系は一つの典型としての意味をもっている。森林生態系を構成する植物は木本植物であり、長年月をかけて生育する。これら樹木は群落をつくるが、〔・・・〕その林床は低木、草本植物をふくみ、また他の生物、鳥類とか大型動物の生活の場ともなる。森林には、昆虫の幼虫、土壌動物であるミミズ、トビムシの仲間、さらには糸状菌や細菌などの微生物の仲間も生息している。こうした意味で、陸上の森林生態系は、あらゆる階層の生物や無機物をふくむ典型的な生態系であるといえる。物質の循環やエネルギーの流れも、森林生態系では典型的なパターンをみることができる。」(『土つくり講座Ⅳ 土壌の微生物』都留信也著/農山漁村文化協会刊/pp. 62-63.)

 はだしで土を蹈み、木々の恵みやちいさな生き物のいのちを戴いて生きたヒトの暮らしは、そんな森林生態系のなかに自らの居場所を見出すことからはじまっている。巨大爬虫類の跋扈ばっこする深い森の夜をゆく、ちっぽけな鼠の祖先でしかなかった哺乳類が、機を得て可能性をひらき、多様な動物に枝分かれしていく奇跡。そんな可能性の奇跡を生きる機会を与えられたヒトは、闇に棲み、光に憧れと畏怖をおぼえた祖先の記憶をからだに刻まれて永い時を森に暮らし、生まれては死にゆく循環のしくみに自らの存在を示す術を、次第しだいに身につけてゆく。それはいつでも森に暮らす様々な存在との、相互関係のなかで生まれてきただろうものだ。
 植物の根を掘ってたたき、すりつぶし、水にさらす。そのままでは毒となるものを水に流し、そこにのこったいのちの力をわが身に取り込む。あるいは身のまわりに溢れる微生物たちの力を借り、植物や動物の遺骸を適切に醗酵、変質させ、さらなる力を引きだす。葛やわらび粉の精製、麹と酵母による酒の醸造など、日本の照葉樹林文化に特徴的な生活の智慧は、様々な生き物、とりわけ微生物との相互関係を通してヒトが見出してきた、生態系における居場所そのもの。ヒトの体には莫大な数の微生物が存在し、彼らとの共生的な相互関係において生かされているため、毒や薬という関係性自体、おおまかに言えば微生物の働きに依存している。


  微生物、循環する森



 微生物と呼ばれる眼に見えない極小の生き物たちは、細菌、古細菌(始原菌)、真菌、粘菌(変形菌)、藻類、原生生物その他小型の動物に大別される。
 自然界に存在する生物の分類法は一九九〇年にカール・ウーズの提唱した「三ドメイン説」が現在の主流で、生物全体を「細菌」(Bacteria)、「古細菌」(Archaea)、「真核生物」(Eukaryota)という三つのドメインに大きく振り分けている。細菌と古細菌はともに細胞核をもたない「原核生物」(Prokaryota)であり、その他の細胞核をもつ生き物すべてが「真核生物」に分類される。こうした近年の分類法は遺伝情報を元に行われているため、かつての形態学的分類とはその趣きが大きく異なり、細菌、古細菌という微生物が生物の三分の二を占めているのがその特徴と言えるだろう。
 この他、生物全体を「バクテリア」と「アーキア(アルカエア)」とに大別する「二ドメイン説」もあり、この分類によればヒトを含む真核生物(プロカリオータ)は古細菌(アーキア)のサブドメインに位置し、すべての生き物は新旧いずれかの微生物の傍系、ということになる。分子生物学的な遺伝情報の解析によって明らかになってきたのは、眼に見えない微生物たちがこの地球という星を覆いつくしている現実であり、自然界における生物の主流は微生物である、ということだ。あるいはこれを仮に、万物の霊長は微生物である、と言い換えてみても良い。
 微生物をかなり大まかに「菌」あるいは「菌類」と呼び、これに細菌や古細菌をも含む言い回しが稀にあるが、これはまだ「菌とは何であるか」が今にもまして定かでなかった時代の表現であり、より現代的に言えば「菌類」とは菌界(Kingdom Fungi)に分類される真核生物の総称であり、キノコやカビ・酵母の仲間である「真菌」(True Fungi)がその主なものだ。
 現在主流の分子生物学的な分類とは別に、キノコやカビは菌糸という細胞で構成されているその形態から「糸状菌」(filamentous fungi)とも呼ばれ、一部の細菌をカビのような菌糸を放射状に伸ばす様から「放線菌」(actinomyces)と呼ぶ(ちなみに、現在の「放線菌門」には菌糸をもたない細菌も含まれているため、注意が必要だ)。農学の現場では細菌、放線菌、糸状菌の三種が土壌に生息する主な微生物とも言われる。また、土壌中の糸状菌で、菌根を形成し植物と共生する菌類のことを「菌根菌」(mycorrhizal fungi)と呼ぶ。森林の地上部に子実体を形成するキノコ(真菌)は、その多くが菌根菌である。
 植物が光合成で固定した有機物を菌類が利用し、菌類が大地に張りめぐらせた菌糸で集めた養分を植物に供給することでかたちづくられている「菌根」(mycorrhiza)は、植物と菌類との切っても切れない相互関係そのものである。けれどもその関係は、必ずしも常に互いを利するものではない。

「「共生」という言葉は、文字通り「共に生きる」ということで、幅広くいろいろな意味で使われているが、もともとは生物学用語であり、「シンバイオシス」(symbiosis)の訳語で、「共に」の意味の接頭語 symと、「生き物」の bioを連結した用語である。〔・・・〕菌学者で植物病原微生物学の父とも呼ばれるアントン・ド・バリーは「シンバイオシス」を「異なる種類の生物がお互いに接して共存している」と定義し、植物寄生菌であるさび病菌やうどんこ病菌なども、この用語の下で論じていた。〔・・・〕その後、異なる生物間の相互作用、特に相利的な関係を示す言葉として使われるようになった。」(『菌根の世界』齋藤雅典編著/築地書館 2020/p. 23.)

 陸上植物の約八割の種と共生関係にあるのだと云うグロムス菌亜門(Glomeromycotina)の菌類たちは、その菌根の形状から「アーバスキュラー菌根菌」(arbuscular mycorrhizal fungi)と呼ばれている。この菌根菌は植物との共生なしには増殖できない絶対共生の状況にあり、自らの繁殖力を抑えることで宿主に寄り添い、植物が環境に適応していくための変化をサポートしながら永い時をかけて自分たちの分布域を広げていったのではないか、と推測されている。この例を参考にしておもえば、利害は時間の幅をどう区切るかによって見え方が異なるものであり、いつでも常に相利的な関係としての固定された「共生」は存在せず、「互いに接して共存している」事実を忘れないことが、共生という言葉の本質ではないかと思う。その本質を忘れた時、薬は毒に働きを変じる。
 陸上の典型的な相互関係として知られる〈森林生態系〉は、ここに記した以上に多様な微生物たちが織りなす物質循環をその基礎において、僕たちヒトを含むあらゆる動物や植物の生を包みこむように、ひとつの大きな曼陀羅を画いて存在している。
 こうした微生物たちのなかの、ごく身近な例を挙げてみるなら、ヒトの腸にも多く棲息する乳酸菌は細菌、醗酵文化の主役となるコウジカビや酵母は真菌の仲間だ。日本人になじみの深い納豆菌は、枯草菌という細菌の一種である。大豆などのマメ科植物の根に共生する根粒菌(rhizobia)は、菌根菌に似た性質をもつが真菌ではなく、細菌の一種で、空中の窒素を植物が肥料として利用可能な形に固定する有益な微生物として親しまれている。
 また、医療の現場で薬品として用いられる抗生物質は、糸状菌や放線菌が産生する排他的な化学物質であり、アオカビ(Penicillium)の産生するペニシリン、ストレプトマイセス・グリセウス(Streptomyces griseus)という放線菌の産生するストレプトマイシン等が主な抗菌剤として知られている。このように微生物はその形質と役割、遺伝情報などによりさまざまな種類に分類され、ヒトの生命活動に密接な関わりを持って存在してきた。微生物は生態系という大きな曼陀羅をつなぐ、眼に見えない糸のようなものにも思える。


  南方曼陀羅



 動物と植物との中間的な性質をもつ不可思議な微生物である粘菌、あるいは藻類、隠花植物などの採集と分類、世界的な視野における民俗文化の比較研究、仏教と自然科学を照らし合わせつつ紡いだ独特の哲学でその巨歩を知られる、ナチュラリスト南方熊楠。一九〇九年、時の明治政府が発した「神社合祀令」に異議を唱え、合祀無益の議決が貴族院を通過するまでの十一年間を反対運動に捧げた彼は、一九一二年、『神社合併反対意見』と題する一文を発表した。多岐にわたる視点から合祀令廃止の必要性を訴えたその文章の論旨は、鶴見和子氏により簡潔にまとめられている。

「日本の神社は、常に森林におおわれている。高い樹の梢からつたってカミが降りてくるという信仰があり、樹木はカミのよりしろであるから、伐ってはならないという禁忌が長く伝わっていた。その下草もまた、生うがままに繁っていた。神社をこわすということは、すなわちそれをとりまく神林を伐採することであった。伐採した樹木を払い下げることに利益があったから、地方役人と利権屋が結託して、神社合祀令を濫用することもしばしばあった。南方は、植物学者として、神林の濫伐が珍奇な植物を滅亡させることを憂えた。民俗学者として、庶民の信仰を衰えさせることを心配した。また村の寄合の場である神社をとりこわすことによって、自村内自治を阻むことを恐れた。森林を消滅させることによって、そこに棲息する鳥類を絶滅させるために、害虫が増え、農産物に害を与えて農民を苦しめることを心配した。海辺の樹木を伐採することにより、木陰がなくなり、魚が海辺によりつかず、漁民が困窮する有様を嘆いた。産土社を奪われた住民の宗教心が衰え、連帯感がうすらぐことを悲しんだ。そして、連帯感がうすらぐことによって、道徳心が衰えることを憂えた。南方は、これらすべてのことを、一つの関連ある全体として捉えたのである。自然を破壊することによって、人間の職業と暮らしとを衰微させ、生活を成り立たせなくさせることによって、人間性を崩壊させることを、警告したのである。」(『南方熊楠』鶴見和子著/講談社学術文庫/pp. 223-224.)

 熊楠がここで憂えていることの本質は、森林生態系のなかで永い年月をかけヒトが見出してきた自らの居場所、存在意義を、神社合祀令に伴う森林の破壊によって見失いかねないことへの危惧、その一事に尽きるだろう。民俗や信仰は環境をかたちづくるすべての存在との相互関係そのものであり、それは年どしの暮らしを通して先人が築いてきた大きな遺産だ。彼が、一人の友人と交わした長い書簡の片隅に描いてみせた、のちに「南方曼陀羅」と呼ばれることになる一枚の図は、すべてが一つの関連した全体であることの様を如実に表している。
 その曼陀羅とも密接な関係をもち、熊楠の熱心な観察対象のひとつであった「粘菌」の仲間は、かつて菌類に含まれることもあったが、現在その多くはアメーボゾア(アメーバ動物)に分類されている。粘菌はさらに「変形菌(真正粘菌)」「原生粘菌」「細胞性粘菌」などに分かたれているものの、古くは植物の仲間と思われていた菌類と、動物との中間的な形態をもつ粘菌の生活様式はとても複雑なため、こうした分類はまだ過渡的なもので、日々更新されていく状況にある。生態系における粘菌の役割も研究の途上にあり、はっきりと明らかにされてはいない。けれども、分解者である細菌や真菌(カビ、キノコ)を補食することから、物質循環における過度な解体を抑制し、環境に均衡をもたらす調整者のような立場にあるのではないかと推測される。
 近代化の波が押し寄せる時代の日本で、古い価値観を根こそぎ破壊しようとする神社合祀令に反対した熊楠の姿は、事物のもつ意味が猛スピードで分解されていくさなかでバランスをとろうとしていたものだと思えば、森のなかに生きる粘菌の姿とどこか重なりあってみえる。彼の脳裡に蠢いていた知性もまた、粘菌と同じく越境的な様を呈しているため、固定化された概念では定義しきれない部分がいまも多い。「ヒトとは何か」を考える上で、熊楠と粘菌の指し示してみせる姿は、とても意義深いものだ。
 ヒトがヒトであることの意味、それは循環する森林生態系にヒト以前とは別の可能性を見出すことにあった。木の枝や骨、植物の繊維や動物の毛、皮。動植物の遺骸に手を加えることでそれにあらたなすがたと機能を与え、コウジカビや酵母という微生物の力を借りて生を営むことから、それまでにない相互関係を育む。
 自然界における生態系は、動植物、微生物、水や鉱物といった構成要素が少なく、その関係性が単純な〈若年相〉から、より多様で複雑な〈成熟相〉へと遷移し、〈極相〉に至って安定するものと考えられてきた。けれども、原始林での現地調査の結果から、事はそれほど単純でない事実が知られてきている。

「原始林の維持機構は、これまで考えられていたよりもはるかに複雑で動的なものであることが認識され始めており、植生遷移理論による「極相」の考え方は有効なものではなくなっている。」(山本進一『対馬・龍良山照葉樹原始林の構造と動態』/『照葉樹林文化論の現代的展開』金子務・山口裕文編著/北海道大学図書刊行会/p.40)

 鳥が木々の実を啄み結果として種を蒔くことでその樹木に利するように、ヒトもまた、生を営むなかで様々な存在と関係を結び、複雑な生態系構造の維持に深く関与してきた。植物栽培とは本来、森林生態系に相互関係の更新をもたらす行為であり、そこに含まれる可能性は必ずしも山に害をなすものではない。


  山の神、いのちを産む母たち



 ヒトの手による植物栽培を森林生態系に自ずから含まれるものとして捉え直すとき、その手がかりとなるのは山の神への信仰の歴史だ。山の神は多くヒトの暮らしに豊穣をもたらす女神として語られ、狩猟採集を司るものであるとともに、里山に暮らす農耕の民にとっては田の神でもあった。
 豊かな森林に包まれた山は、水田に必要となる水とそこに溶けこんだ多種多様な有機物、ミネラルを育む母胎だ。春になると平地の農耕民は山から神を招き、さまざまな儀式を執り行うことで森林生態系における関係性を態度として示し、相互関係の継続を誓い、秋の稔りを乞いねがう。
 豊穣を司る女神とされた山の神をそのもの森林生態系であると見なせば、それは僕たちにあるひとつの問題を示唆する。山の神を奉ずる狩人について語られた、印象的な民話を引用しよう。

「陸中国閉伊へい附馬牛つきもうしあざ生出おいでという山里に万治と磐司という二人の狩人があった。万治は名人で日に幾十とないえものをとりなかなか羽振りもきく男であったが、磐司のほうはどうも仕事が下手で終日山を歩いても一匹のシカさえ捕らぬことがときどきであった。ところがある日万治が狩り山へゆくと、途中に美しい女が産をして血だらけになって苦しんでいる。万治がそこに通りかかると女から助けを乞われたが、狩猟には死日しにびよりも産日さんびの穢れを忌むのであるからすべなくその言葉を断わってそのまま山へいった。そのあとから磐司がそこに通りかかると、やはり女から救いを求められたので、なんのいやな顔もせずなにくれとなく親切に女を世話介抱して首尾よく子を産ませた、産んだ子らは十二人であった、女人はいたく喜んで汝にこれから山幸やまさちを授けてやろうと言い、磐司とおまえの名まえを称えたら、それは山幸の手形であるぞといわれた。それから磐司には日々つづいて大きな山幸がある。」(佐々木喜善著『東奥異聞』/『世界教養全集 21』/平凡社 1963/http://www.aozora.gr.jp/cards/000263/files/53817_53604.html )

 この女人は山の神であり、その出産を助けた磐司は山の幸の豊穣を約束され、穢れを避けた万治は以後狩りの力を喪う。その後の万治がどうなったか、民話のなかで語られることはないが、思うに彼は生活のため山を下り、農民としての生を選んだのではないだろうか。多くの山人がある種の職業集団としてしだいに山を下り、平地民の生活に同化していった経緯は、歴史学の研究により少なからず知られている。ヒトが母なる自然の一員であったことを忘れ、母胎である森林生態系から自らを切り離していく過程に、浄不浄、穢れの観念が密接に関係している事実を、女性の性と生殖をめぐる問題を通して、この民話は如実に物語っている。女性の生殖力に対するあこがれとおそれは、そのまま山と森への畏れでもあった。
 母なるものが時を得て胎内に子をなし、産みおとす神秘。森と同じくひとつの生態系であり、多様な要素の複雑な相互関係によってその機能が維持されている動物のからだの、もっとも神秘的な働きである出産に深く関わり、それを成し遂げる力を与えているのは、やはり微生物である。


  豊穣の女神、腸内フローラ



 ヒトのからだには多様な微生物が棲み、皮膚や鼻、口、消化器官等において「常在微生物そう」と呼ばれる複合体をかたちづくり、宿主であるヒトの生命活動と共生的な関係を築いている事実は、今日良く知られている。とりわけ、腸内における細菌叢(腸内フローラ)は自然界における微生物の理想的な均衡状態であるとも言われ、植物栽培をおこなう農業の現場で土壌のあり方を考える際にも、日本酒の醸造過程とともに良く引きあいに出される話だ。ちなみに、細菌叢や植物相を意味する「フローラ」(flora)はローマ神話に語られた花の神格、春と豊穣を司る女神からその名前が採られている。
 女性のからだのなかで最も性に関連する器官、膣も、常在微生物叢が重要な役割をはたしている場所だ。男女が性交をおこなう場であり、出産に際して子どものくぐる産道となる膣は、子宮や卵巣、膣自身を守るための自浄作用をもつ。その自浄作用を支えているのは、「デーデルライン桿菌かんきん」と呼ばれる一群の乳酸菌だ。
 仮に「乳酸菌」の名でまとめられた、さまざまな種類の細菌を含む微生物の一群は、ヒトの腸内環境を整えてくれる善玉菌として働き、pHを適度に調整する乳酸の力で醗酵食文化の根底をささえ、土壌に理想的な均衡をもたらす有用微生物群の筆頭として親しまれている。けれども彼らの仲間は、時としてその過信を裏切る。
 ヨーロッパ女性の主要な膣内細菌であり、ヨーグルトやチーズの発酵に用いられる代表的な乳酸菌の一種「ラクトバシラス属細菌」(Lactobacillus)はデーデルライン桿菌の中心的な存在だが、糖を分解する際に産生する乳酸が歯のエナメル層を腐食することから、虫歯の発生と進行に少なからず関与しているのだと言う。虫歯の原因菌として知られる「ミュータンス連鎖球菌」(Streptococcus mutans)も乳酸菌の一種だ。あるいはまた、日本酒に深刻な腐造をまねく「火落ち菌」など、醗酵食品に対して乳酸菌が雑菌としてはたらく場面もあり、直接的な関係はあきらかでないが、乳酸の産生過剰で血液が酸性に傾くと高乳酸血症をまねくのだとも言われている。こうした微生物たちの働きをより深く認識するために、僕たちヒトのからだに常在微生物の群落が形成されていく様子を、順を追って辿ってみよう。
 一般に、生まれる前の胎児は無菌状態にあって、子宮内部には微生物がまったく存在しないと考えられている。けれども、最新の知見によれば母親由来の細菌は臍帯血と羊水からも見つかっており、胎盤を含む子宮の内側はなお、未知なる領域として残されている。
 胎児は出産に際して産道をくぐり、まずは母親の膣にいる細菌と出会う。すでに述べたように、その多くは「ラクトバシラス属細菌」に代表される乳酸菌の仲間だ。そしてまた、妊娠中の女性の膣に棲む微生物の組成比は非妊婦のものと異なり、通常の膣内細菌のほかに、普段は腸にいるはずの細菌も検出される。妊婦の体内では、平時は使用不能な非常階段のようなルートが開かれており、思いがけない経路を通って微生物は膣や乳房へと移動していく。さらに、出産の数時間前に母体は特殊な膣粘膜の生産を増やし、特有の微生物を育てるのだとも云う。
 膣内微生物のいる産道を通ったあと、たいていのばあい頭から下りてくる胎児は、生まれるときに母親の大腸を圧迫する。このため、なりゆきとして新生児の顔は母親の腸内細菌まみれになる。ヒトの糞便中に最も多いとされる微生物は「バクテロイデーテス門」に属する細菌群(Bacteroidetes)だ。ここで出会うバクテロイデーテス門の「バクテロイデス属細菌」(Bacteroides)は、膣にいた乳酸菌等とともに新生児の腸に到着するが、成人の腸と違い、そこには子宮にいた頃の酸素が残っている。バクテロイデス属細菌は偏性嫌氣性のため、酸素の存在に耐えられず、活動や増殖には適していないので、微好氣性乳酸菌などが酸素を消費し、大腸に無酸素の環境をつくりだすまでは鳴りをひそめている。
 出生直後二四時間前後の新生児の腸はとても不安定で、周囲の環境から侵入した大腸菌や腸球菌、ブドウ球菌、クロストリジウム属細菌などが増殖を開始する。そのため、出産後の母親から与えられる母乳を介して、さらなる微生物たちが乳児の腸に送りこまれる。通常は膣や腸にいる「ビフィドバクテリウム属細菌」(Bifidobacterium)などの細菌が、樹状細胞と呼ばれる免疫細胞の中に入って乳房へと移動し、母乳とともに乳児の口に運ばれていく。ビフィドバクテリウム属細菌はいわゆるビフィズス菌であり、「放線菌門」(Actinomycetota)に属している。生後三・四日でこうした乳酸菌が腸に定着し、雑菌の繁殖から乳児を守る態勢を整えていく。
 母乳に含まれるヒトミルクオリゴ糖という複合炭水化物は、複雑な化学構造をもつためヒトには消化できない。これは主にビフィズス菌などのための食事であり、それと同時に、バクテロイデス属細菌たちの腸への定着を促すものでもある。赤ん坊の成長に合わせて母乳のオリゴ糖含有量は変化し、それに伴い母乳に含まれる細菌も変わるのだと云う。こうして母親の腸内細菌は、我が子の体のなかに着々と移住していく。
 生後三か月で、ラクトバシラス属などの乳酸菌を含む「フィルミクテス門」の細菌群(Firmicutes)が優勢となるが、母乳に含まれるヒトミルクオリゴ糖によってバクテロイデス属細菌の定着が進むと、乳児は固形物を口に含みはじめる。バクテロイデス属細菌は主に植物組織を分解して生きているため、宿主である乳児もその恩恵を享けることができるようになるのだ。母乳の時期を経て乳児が離乳食をとるようになると、バクテロイデス属などの嫌氣性腸内細菌が増加し、ビフィズス菌は減少する。こうして形成されていく腸内微生物叢は、僕たちヒトと微生物たちが「ひとつの関連ある全体」として結ぶ、切り離すことのできない共生関係であると言えるだろう。


  血のなかの土



 ヒトの腸内に生息するこうした微生物たち――フィルミクテス門、バクテロイデーテス門、放線菌門に属するさまざまな種類の細菌――は、植物の根の周辺にかたちづくられている「根圏」の主要な三グループでもある。先に述べた菌根菌との共生のみならず、植物は自分が根を張りめぐらせている土壌中の空間に棲む、多種多様な生物たちと複雑な相互関係を結んでいる。こうした根とその周縁にかたちづくられる動的な空間=関係性を総称して「根圏」(rhizosphere)と呼び、根と密接な相互作用をおこなう微生物群集は「根圏微生物叢」と呼ばれる。
 根はふつう、土壌から水や栄養を吸収しているものだと考えられている。けれども、実際に土壌の養分や水分を吸収しているのは根と共生した菌根菌の菌糸であり、植物の根と微生物の菌糸をきりはなして考えた場合、「根は直接的には土壌から何も吸収していない」とさえ言われる。これは極端な話だが、植物の生態は今まで考えられてきた以上に緊密で複雑な土壌内の相互関係から成り立っており、「根圏」という動的な空間も含めた総体として植物をとらえなおすことの必要性が、近年ますます明らかになりはじめた。
 根圏に存在する土壌微生物は必ずしも植物に友好的なものではないが、微生物同士の関係性も含めた複雑な「ひとつの関連ある全体」をなしているさまは、ヒトにとっての腸内微生物叢と非常に良く似たすがたを示している。僕たちは自分自身の腸を「内部」にあるものと捉えがちだが、腸壁はあくまでも「体表面」であり、植物が根で土壌に接しているのと同じく、腸は外部に対してひらかれた空間であって、腸壁は根のように腸という酸素の少ない環境に接している。その姿はまさに根圏と重なりあうものだ。

「上から来る厄介ごとを避けるために、植物が根圏に棲む細菌の力を借りるという興味深い例もある。葉の病原体が攻撃してきたとき、植物はそれを感知し、化学物質による長距離通信を根の細胞に送る。すると今度は根の細胞が滲出液を放出し〔・・・〕枯草菌が駆け寄ってきて、数時間で根にぎっしりと集落を作り、さらに植物と化学コミュニケーションが始まる。細菌と植物の対話を引き金に、植物は葉の病原体に対抗する浸透性の防御物質を生産して循環させる。さらに驚くことに、枯草菌は植物に働きかけて、病原体が葉の内部への侵入路とする葉の表面の小さな開口部(気孔)を閉じさせる。」(『土と内臓』デイビッド・モントゴメリー+アン・ビグレー著/片岡夏実訳/築地書館 2016/p.125.)

 ヒトの腸に棲む微生物も、ここに描写された枯草菌と同じく、普段は人体にとっての他者として存在しているものが多いが、化学物質による対話を行うことで一時的に相利的な共生関係を結ぶこともあり、こうした一時的な「相利共生」状態にある微生物とヒト、あるいは微生物と植物とを、完全に分離して考えることはひどく難しいだろう。そしてまた、僕たちヒトの腸と植物の根圏が完全に重なりあって感じられる時、そこに浮かび上がってくるのは本当の意味での森のすがたであり、森という一つの実感からみれば、ヒトと木々すらも容易に分けて考えることができない。
 二つのものが完全に重なりあって、どちらがどちらであると分けてみることの困難な状態は、「量子ゆらぎ」(Quantum fluctuation)と呼ばれているものを僕に想起させる。量子力学の不確定性原理によれば、粒子レベルの一つの現象に関して、二つの異なる物理量を同時に精確に測定することはできず、片方の物理量は確率的にしか表現することができない、とされる。ミクロレベルの現象について、その「状態は確率でしか表現されえず、むしろさまざまな状態の重ね合わせである」のだと云う。これが「ゆらぎ」と呼ばれるもので、英語の fluctuation は不確定な変化を差し示している。
 自然界をつらぬく本質は循環する生と死が見せる「無常」にあり、「無常」とはこの「ゆらぎ」を意味しているのだが、僕たちの日常的な目にそれは、ひどく不確かな二面性として映る。別けて見ることの叶わないものを無理に別けようとした時、人はそこに存在しないはずの幻影を視ることになるのだ。


  魔女と聖女



 ヨーロッパの中近世にまきおこった異端審問、魔女狩りの対象とされ虐殺された魔女と、同時代を生きた聖女たちの生は、本質的に何ら異なることはなく、常に紙一重の存在であった。その姿はどこか、ヒトのからだに棲んでいる乳酸菌たちの振る舞いに似ている。
 魔女、あるいは聖女とみなされた女性たちは、それぞれに超自然的な存在と関係を結び、その関係によって与えられた力をひとびとの暮らしにもたらす。とりわけ、魔女とよばれることもあった民間の呪術師たちは、ヨーロッパ古層の神話伝承につらなり、さまざまな薬草や医療の智慧、出産を助ける産婆術、農業の稔りを約束する儀式などに通暁した、森林生態系のなかで生きるヒトの暮らしになくてはならない存在であった。それはそのまま、ヒトの命を誕生の瞬間から死の床まで支え続けている、眼には見えない乳酸菌の働きに重なりあうものでもある。

「動物にのって、または動物に変身して死者の国に旅立つ魔女(の前身)たちには、小麦の生命力を回復するために、また畑の豊穣を確保するために、その死者や精霊の神秘的な行列に参加する目標がある。」(『魔女と聖女』池上俊一著/講談社現代新書/p.24)

 先に引用した民話のなかで、狩猟民俗社会においては死の穢れよりも女性の出産にまつわる穢れを忌んだ、とされたのは、なぜなのだろう。
 それはおそらく、その時には「まだ分からないこと」を、道理を越えて「分かっていること」に変えようとしたために生じた幻像であったのだと思える。未知なるものとしてある死後の世界を無理に分かろうとした結果として死の穢れという幻を生み、ゆらぎつづける自己という実感の不思議を強いて分かろうとしたことが固定化された男女という関係性の幻想を生み、別ちがたく一つの全体としてある出産の神秘を制御可能な現象として手中におさめようとしたまさにその時、穢れという幻影からさらにねじれた〈二重の夢〉が生まれ落ちたのではないだろうか。魔女と聖女という〈二重の夢〉の彼方に、母なるものと呼ばれることもあった自然の――僕たちヒト自身の実感に即した自分の――本当のすがたが静かにゆらめいて浮かび上がる。
 僕たちは誰もが、ひとりのヒトと呼ばれる森の生態系の不思議だ。
 この国の神話における国産みの母イザナミノミコトは、自らが産み落とした火の神に女陰ほとを焼かれて死に、黄泉の国へと旅立つ。亡き妻への愛惜の念やまず、黄泉の国まで追いかけて無理にそのすがたを見た夫イザナギノミコトは、死の国の主となった妻の醜さにおののき、あの世とこの世の境界をさえぎって絶縁を言い渡す。それは同時にすべての存在が孕む未知なる「ゆらぎ」への、大きな否定でもあった。生と死の起源を語る神話が、生と死という別ちがたいものへの誤解を産み、聖と穢れの二重の幻想をヒトの脳裡に描く。死後の生の幻影を超えてたしかにイザナミの姿を見つめなおそうとする意志をもてば、根の国、ははの国はイザナギの前に、再びその扉を開くだろう。
 古代ギリシャの哲人ソクラテスは、同時代のソフィストたちが民衆に語りかける言葉のなかの「分かっていることに変えようとしたために生じた幻」の不在を暴き、「今はまだ分からないことを、分からないという実感のままに見つめる」ことの意味を人々に深く問うた。今はまだ分からないことを、一つひとつの実感のままにじっと見つめ続けて、僕たちは自分自身というものの不思議をたしかにそっと理解していく。ここが考えるヒトの始まりの時間だ。
 ヒトはなぜ、自らを育む自然を破壊するのか。この大きな問いへの答えは、母なる森へのあこがれと畏れ、そのなかに隠されている。大地震によって原子力発電所が爆発、メルトダウンをおこして、いまなお漏洩をつづける放射性物質の眼に見えぬ力にとまどいながら、それでもなお生きようと決意をあらたにするとき、母なる自然は僕たちにその本来の姿をひらき、植物や動物、微生物、すべての存在の本然のすがた、そして過去の出来事、遺された民俗を通して、静かに、そして確かな声をもって、森林生態系のなかに暮らす未来の智慧を、僕たちの耳元で語りつづけている。

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参考文献|References

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『あなたの体は9割が細菌』アランナ・コリン/矢野真千子訳/河出書房新社 2016
『土と内臓』デイビッド・モントゴメリー+アン・ビグレー/片岡夏実訳/築地書館 2016
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「腸内細菌叢とdysbiosis」馬場重樹・ 佐々木雅也・安藤朗/『日本静脈経腸栄養学会雑誌 Vol.33 No.5』/日本静脈経腸栄養学会 2018
『菌根の世界』齋藤雅典編著/築地書館 2020
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『南方熊楠コレクションⅠ~Ⅴ』南方熊楠/中沢新一編/河出文庫 1991
『南方熊楠 地球志向の比較学』鶴見和子/講談社学術文庫 1981
「対馬・龍良山照葉樹原始林の構造と動態」山本進一/『照葉樹林文化論の現代的展開』金子務・山口裕文編著/北海道大学図書刊行会 2001
『神の民俗誌』宮田登/岩波新書 1979
『女の霊力と家の神』宮田登/人文書院 1983
「東奥異聞」佐々木喜善/『世界教養全集 21』/平凡社 1963
『魔女と聖女』池上俊一/講談社現代新書 1992

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