Homo rehabilis【12】自然を探す:微生物との対話=祈りの海の深層のなかで


 自分を見失うと、同時に自然の姿も見えなくなる。自分は自然なのだから、これは当然のことだ。自分が自然であることの根拠を求めて、微生物やウイルスという不可思議な存在の本質を捉えようともがいた結果、自分というものの輪郭が曖昧になり、「自然」という言葉で呼んでいるものの定義も同時に、ぼんやりと焦点の合わない姿に変じてきてしまった。ここには奇妙な「不自然」がある。自分は自然ではないのだろうか。それを今から考えてみたい。
 自然ということばはいったい、何を意味しているのか?
 英語で「自然」を表す「ネイチュア nature」という名詞は、人や物のもつ「性質」や「自然な姿」としての「本質」を意味する言葉として使われることもある。この語義は古代ギリシア語で「自然」を表すことば「フュシス φύσις」と関連をもつものだが、その詳しい関係性についてはのちに考察するとして、この意味においては、ヒトというものの本質(自分それそのもの)は自然であり、「自分は自然である」と言うこともできるだろう。
 けれどもまた、手元にある辞書には「神の恩寵に浴していない魂の自然状態」という、神学上の用例も記されている。自然はそのような、うち棄てられて荒漠とした光景をあらわすものであるのか、それとも心のもっと奥深くにあるはずの、違和感なくまさにそれ自身であるとヒトが認めうるようなものであるのか、簡単にはその本性を露わにしてくれない。そもそも僕たちが「自然ということば」で呼んでいる何かは、本当にあるのだろうか? たとえば、人類学者の川田順造さんがその師であるクロード・レヴィ=ストロース教授(Claude Lévi-Strauss, 1908-2009)と交わした次のような対話がある。

「私が三〇代の頃アフリカで書きつけた、「人類の歴史は、自然の一部でありながら、自然を対象化するようになった生物の一つの種が、悲惨な試行錯誤をかさねながら、個人の一生においても、社会全体としても、叡智をつくして、つまり最も人工的に、みずからの意志で自然の理法にあらためて帰一する、その模索と努力の過程ではないかと思うことがある」(中公文庫『曠野から』三一頁)という考えについて、意見を求めたことがある。先生は、その自然の理法(la raison de la nature)はどのようにして認識できるのか、特別の瞑想や修行によって一挙に到達するのでない、誰もが分かち合える方法として探求できないものかといい、自分は認識論においてはごく常識的なカント主義者だと言われた。」(「レヴィ=ストロースにおける自然と文化」川田順造/岩波書店『思想』No.1016/2008.12/pp. 6-7.)

 仏教思想やインド哲学、道教、老荘思想のもたらす影響を色濃く受けた東洋の日本人として、「人は自然の一部であり、〈自然の理法〉に帰一することができる」という感覚は特に疑問の余地がないものとして僕のなかにも存在していた。僕たち東洋人の多くは、「自然」をそのようなものとして教えられ、おおよそそのようなものであると思っている。自ずから然るべきもの――まさにそれそのものであるはずの、ありのままの世界。人の還りつくべきもの。けれどもたしかに、言われてみればそれはひどく曖昧なもので、「特別の瞑想や修行によって一挙に到達するのでない、誰もが分かち合える方法」によって確かめてみることなしには、自然の理法、そして自然と呼びうるものがあるのかどうか、本当のところは判然としない。そこには何か、半分の幻が含まれているようにも思える。


  親しげなペテン師ども



 進化人類学者で詩人のローレン・アイズリー博士(Loren Eiseley, 1907-1977)は、その自伝的エッセイ『夜の国』におさめられた『闇の導具たち』("Instruments of Darkness")という小品を、「The Nature」という言葉から書き出している。この、定冠詞をかぶせられた大文字のネイチュアが、何を指し示し、何と訳すべきものであるかは熟慮を要するけれども、ここではひとまず「自然というものの本質」として捉え、その意味するところを考えてみたい。長くなるが、博士の意図するところを取りこぼさないためにも、その冒頭の部分をできるだけそのまま、一つの語のもつ意義を念入りに展開させ検討しながら、ここに訳出してみることにしよう。ぬばたまの闇に蠢く神々のすがたは、言葉というもののもつ多義性の影の、見落としがちな細部にこそ宿っている。

「自然というものの本質、シェイクスピアのマクベスが、じたばたとした煩悶の末に狡賢ずるがしこい魔女の妖しい助言に手をのばすはめに陥ってしまった、ヒースの荒れ野の有名な場面に描きだされているその本質の姿は、文学史上忘れがたい印象を残すものだ。背筋の凍るその魅力に呆然とさせられた私たちは、マクベスのもつ高潔な個性が悪意にみちた変容を遂げていくさまを、しだいに明らかになる未来についての疑惑を刻々と深めてゆく彼のたしかなまなざしを通して――自ら創りあげたものだと私たちが確信している未来というものの一つの姿を、固唾かたずをのんで見守っている。この場面はいつの世にも、人の恐怖を十分にそそるものであったが、今日を生きる洞察者の真偽をわけてみさだめようとする眼には、ほとんど耐えがたい情景として映しだされる。この恐るべき力は、マクベスの真夜中の世界と現代科学の領域がもつある親密な関係性を象徴的にスケッチした、その筆づかいに篭められている――けれどもその関係性を、しっかりと掴みとった人はごく少ない。
 人の好い将軍バンクォーは、マクベスとは違い、魔女たちがこの仲の良い二人に与えた未来に関するいくつかのほのめかしなどには慎重な様子で、せっかちな親友の衝動にかられた心を落ち着かせ、その想いを断とうとしているように見える。「しかし奇妙だぞ」とバンクォーは言う、

  たしかにしばしば、俺たちを痛めつけるために、
闇の手先どもはいくつもの真実を語る。
甘いまことの数々をほんの少しずつ施して、奴らが裏切るのは、
いちばん深くに隠されたその結末においてだ。
〔『マクベス』第一幕第三場〕


 マクベスはすでに魔女たちの予言に誘われ、自ら産みおとした現実に進んで飛びついてしまっていたが、最期の時の死に際においてつまずき、抗議の言葉を申し述べるためだけに、の者どもの骨折り仕事からどうにかころげ出した。

  あの親しげなペテン師どもめ、もう二度と信じるものか・・・
俺たちの耳にむけては、約束の言葉を響かせつづけ、
俺たちの希望にむけては、言葉はその響きを破るのだ。
〔『マクベス』第五幕第八場〕


 これは誰? と今、私たちは問うことになるのだろう。マクベスを待ち伏せ、彼を呼び止めたこの奇妙な存在たちはいったい何者で、そしてなぜ、生涯を科学の領域に過ごしてきた私が、科学の黎明期に語られたこの古い殺人劇がその影をのばし、ドアを越え、私たちの近代的な研究室にまで這い入ろうとしているのだ、などと、無謀きわまる話をあえて主張しようとするのだろうか? 顎髭をはやした、性をもたないこの化け物たち、大氣に溶けて消え失せてしまう力をもち、あるいは渦巻く炎にとりかこまれた終局の場面に、人間の愚かさを嘲笑うためだけに再びその姿を現すだろう彼らは、私たち自身の内なる一部が摘出され、露わなかたちで示されたものだ。この化け物は、人それ自身の魂の投影された影であり、心のなかのとりとめもない思考が狼煙のろしのように氣化しては立ちのぼる、潜在意識が意図するものの告示、つまりデルフォイの神託によって支持されるところの――人が自覚をもって受け入れるところの〈半真実〉であり、この託宣は私たちの上に、覆いかぶさるような力を及ぼす。こうした神託の呪文にかけられてしまった人は、真の未来や必然性を生みだすのではなく、自分自身の内面から汲みあげられたまことしやかな模造品を、純粋な人間の力を通して、現実の上にしつけ、二重焼きにしてしまう。だからこそなるほど、この幽霊たちの創りだす世界は偽物であると同時に本物であり、その複雑さこそが人間の運命である、と誰かが口にすることすら、可能になってしまうのである。
 どの時代にもこの降霊術が投影された、それぞれに独自の流儀スタイルがある。エリザベス朝の魔術師たちが死者のむくろを呼び起こすことで予知した前兆は、私たちの時代ではもっと別の、科学的な、一見ずっとそれらしく解釈された未来に道を譲ってしまった。だからこそ今日、私たちは人がどこから来て、その未来に何が期待できるのかについて、もっと多くの事を知っている――あるいはむしろ、そう思っている。しかし、マクベスが「親しげなペテン師ども」と呼んだ、異様で、感覚の鋭い、神秘的な亡霊たちが、魔女や、占星術師、あるいは現代の技術者として、いかなる時代にどんな姿で現れたとしても、その身元を確認できるものがここに一つある。彼らの特徴は、全知を主張する点にあるのだ――その全知は過去か、まことしやかな現在に根拠をもつ半分だけのもので、未来についての本当の知識はいつもぬけ落ちている。彼らの披露する未来はどこかに固定されていて、生氣にとぼしく、事前に用意しておいたものであるから融通がきかない。そこに人の視線を惹きつける顕著な特色がある。」(Eiseley, Loren. "Instruments of Darkness." The Night Country. First publishing in 1971, Bison Books, 1997, pp. 47-49. 拙訳)

 この文章は僕たちが置かれている現状をかなり綿密に、如実に表現している。その筆づかいの蛇が這うようなうねりは、僕たちをとり巻く状況――ウロボロスの環――がうごめくさまを、可能な限り緻密に示そうとしているものだ。と僕は思う。マクベスが「親しげなペテン師ども」("jugling friends")と呼んだものたち、生命の神秘をつかさどる女神の零落した姿をあらわすだろう三人の魔女や、天使、妖精、妖怪、精霊、神託を与える多くの神々たちは、僕たちの内側に、僕たちの一部として、肉眼ではみることのできない物理的なものとして実際に存在している。少なくとも僕は、そう考えている。
 ここには実感があるが、科学的事実を積み重ねた解説をそこに施すとたちまち、たしかな感覚の上にことばの多義的な影がかぶさり、二重焼きされた幻に変じてしまう。その幻はさらなる幻を、不要なものである「試行錯誤」(錯覚に氣づかず、誤った試みを行いつづけること)や「模索」(眼を閉じて、まことしやかな模造品をまさぐること)を産む。それでは「誰もが分かち合える方法として探求」することができない。僕がこの実感を、その本質、自然な姿としてしっかりと描きだし、分かちあうことは、どうすればできるのだろう。レヴィ=ストロース教授は言う、

「私の考える還元の操作は、次の二つの条件が満たされないかぎり正当化されえないし、また可能にもならない。条件の第一は、還元される諸現象の中身を減らさぬこと、そしてまた、あらかじめ各現象の周囲に、その豊かさや弁別的独自性に貢献するあらゆる要素をもらさず集めたことを確かめておくことである。〔・・・〕第二に、到達しようとするレベルがどのようなものであれ、それについての既成観念がこの還元の操作によって根底から覆されても驚かぬ心構えをしておかなければならない。民族誌的還元から導き出される一般的人間性の観念は、むかし考えられていた一般的人間性の観念とは、もはや何の関係もないものとなろう。生命を不活動物質の作用として理解できるようになった暁には、不活動物質が、それまで考えられていた属性とは非常に異なる属性をもつものであることが明らかとなるであろう。したがって、還元のレベルを高いレベルと低いレベルに分類することはできないであろう。なぜなら、逆に、還元の結果として、高いレベルと考えられたものが低レベルのところまでもって来られ、その豊かさの一部を遡及的に低いレベルに伝達することも考えなければならないのであるから。科学的説明とは、複雑さから単純さへの移行ではなく、可知性の低い複雑さを可知性の高い複雑さに置きかえることなのである。」(『野生の思考』C.レヴィ=ストロース著/大橋保夫訳/みすず書房 1976/pp. 297-298.)

 レヴィ=ストロース教授はこの還元の操作を用いて、低いレベルに貶められ「野蛮な sauvage」ものと見なされていた人びとのもつ現実把握のあり方を「野生の sauvage」思考、そして「神話的思考」「神話論理」へと立ち還らせる。その結果として、「洗練された」高いレベルのものと見なされていた近代的な知性は、用途を限って効率を高めるために「栽培化されたり家畜化された」思考であり、「野蛮人とは野蛮を信ずる者のことだ」という厳しい批判に晒されることになる。
 ただ、ここまででは、マクベスの魔女たちが囁く〈半真実〉の呪文と同様の危険を孕んでおり、陰陽がとめどなく流転するウロボロスの環――二匹の蛇がお互いの尾を食らいあうさまで描かれた円環――の呪縛から、十分に抜けだしたことにはならない。「可知性の低い複雑さ」(複雑だが、誰もが知りうる可能性をもつもの)を、単純ではあるが不可知なものへと変容させてしまう危険がある。その最たるものがマクベスの魔女の呪文だ。

Fair is foul, and foul is fair:
Hover through the fog and filthy air.

きれいは汚い、汚いはきれい。
霧と濁った空氣のなかを、ぐるぐるさまよい浮かんで行こう。
〔『マクベス』第一幕第一場〕

 ことばの多義性によって「美しいは醜い、醜いは美しい」「正しいは正しくない、正しくないは正しい」などの意味にも読みとることのできてしまうこの呪文は、レヴィ=ストロース教授の言う「二つの条件」が満たされることなく操作されたことで産み出された恐るべき二重の幻影であり、このような「正当化されえない」言葉は僕たちの周囲に、濁った空氣のように(あるいは濁った空氣そのものとして)ばらまかれ、神秘の霧に包まれた「デルフォイの信託」めいた何かとして半ば承認され、時として推奨されてすらいる。それは「事実」を扱う科学者の言葉のなかにも、予期せぬかたちで包みこまれているものだ。氣づかぬうちに人は「自覚をもって」それを受け入れてしまう。
 アイズリー博士が『闇の導具たち』の文中で述べたように、「こうした神託の呪文にかけられてしまった人は、真の未来や必然性を生みだすのではなく、自分自身の内面から汲みあげられたまことしやかな模造品を、純粋な人間の力を通して、現実の上にしつけ、二重焼きにしてしまう」だろう。
 僕たちはこの神秘的で濁った、単純な言葉の組み合わせがかたちづくるウロボロスの環にとり囲まれ、自ら期せずしてつくりあげた霧のなかを、ふわふわと、行きつ戻りつしている。そこには「(無条件に)ありのままで良い」という、思考の停止を誘いうる呪文も含まれている。これでは僕たちはどこにも辿り着けない。東洋文化の〈自然の理法〉を語りあげた先哲たち、老子や荘子のことばを想い起こさせるような雰囲氣をもつ「還元のレベルを高いレベルと低いレベルに分類することはできない」という一文は、全体の文脈から切り離されてしまうと、魔女の呪文にとりこまれてしまう危うさを孕む。
 こうした言葉の魔術に陥ることを避けるために、レヴィ=ストロース教授は「還元の結果として、高いレベルと考えられたものが低レベルのところまでもって来られ、その豊かさの一部を遡及的に低いレベルに伝達することも考えなければならない」と忠告する。この一文はいくぶん難渋だが、読み飛ばしてはならない要点を指し示している。
「野生の思考」と「栽培化された思考」(あるいは「植民地の先住民」と「近代的な西欧人」、「きれいという言葉」と「汚いという言葉」などなど)の立場を逆転させたり、その二つを単に並列させるだけではなく、その二つが常に立場を変えながら共にその豊かさを深めていくような作業こそが「還元」である、と言えるだろうか。複雑な事象のあるべき複雑さとは「多様性」であり、それを損なうことは、自分自身の本質というものを誰もが知りうる可能性や、それを誰もが分かちあうことのできる、まだ見ぬ方法へと到る道を閉ざしてしまう。
 レヴィ=ストロース教授のいう還元を行うためにはまず、彼の提示する第一の条件を満たしておく必要があるが、その前に、彼がこの「還元」という言葉をどのような意味、そしてどのような文脈を想定して用いているのか、しっかりと見定めておきたい。彼はこの著作のなかで、まさにその題名である『野生の思考 La Pensée sauvage』を用いたブリコラージュと呼ばれる知的操作を行っているため、この「還元」もその操作の範疇に置かれている可能性がある。ブリコラージュの説明はあとで行うとして、まずはそもそも「還元」とは何を意味するのか、手元にある広辞苑を紐解いておこう。

かんげん【還元】①根源に復帰させること。②〔化〕(reduction)酸化された物質を元へ戻すこと(即ち酸素を奪うこと)。または一般に、化合物に水素を加えること、陰性原子価の増加すること、陽性原子価の減少すること。(『広辞苑 第二版補訂版』新村出編/岩波書店 1978/p. 488.)

 化学用語としての「還元」は「reduction」の訳語である、と説明されているので、その語義を手元の英和辞典で引いてみると、

reduction 【名】①減少(する〔させる〕こと).②縮小したもの、縮図.③〔or a~〕変形、分解.④〔or a~〕修復、調整.〔化〕還元(法).〔医〕整復(術).〔天〕(観測誤差の)修正.⑤格下げ、零落.⑥征服、降服.(『ジーニアス英和辞典 Second Edition』から抄出/大修館書店 1995/p. 1475.)

とある。フランス語の女性形名詞「還元 réduction」も、おおよそ調べてみたところでは英語のそれとそれほどの異同はなく、「(数や量や大きさ等を)減少させること」「価値を下げること」そして「単純化すること」といった語義をもつものである、と言えるだろう。
 漢語の「還元」がもつ第一義、「元初の姿に立ち還る」という、どちらかといえばポジティブなイメージをもつ語義をごく当然なものと考えていた東洋人としての僕には思いがけないことだったが、西欧語としての「還元」には「征服し、奪いとり、零落させる(貶める)こと」といったネガティブな語義がそのイメージとして含まれていることが見てとれる。その状況に向きあって一種の対話を交わし、ひとしきり考えをめぐらせた〈野生の思考〉は、いくぶん禅問答のような知的操作によって還元ということばそのものをも還元する。
 つまりここでレヴィ=ストロース教授は、「還元 réduction」という言葉の意味をもブリコラージュし、当時のフランス語の一般的用法においては数や量や大きさや価値が減るはずの操作に「中身を減らさぬこと」「豊かさやそれ自身を見分けることのできる独自性が保証されること」「単純化させないこと」という不可能とも思える条件を加えることで、その語のもつ下降的なベクトルを写真のネガのように反転させ、まずはウロボロスの環のような、陰陽二つの力が互いに拮抗した状況を作り出し、さらにそこからその円の中心、東洋の哲学が言うところの太極(根源)へと還りつくための道を、示しだそうとしているのだ。あるいは彼の当初の意図を超えて、指し示すこととなってしまった。
 彼が中国語の(漢語の)「還元」がもつ神話的な意味を、事前に知り、理解していたのかどうかは分からない。可能性は十分にある。あるいは医学的な意味での「整復」(ゆがんだ体を元の状態に整える)や、天文学的な意味での「誤差の修正」をイメージしていたのかもしれない。ただ、彼の操作、この〈ことばの錬金術〉の結果が、彼が「当初によりよいと考え」ていたものを超えていただろうことは、想像に難くない。のちに引用する彼自身のことばがそれを提示している。
 そして、彼がその著作『野生の思考』を上梓した前後の状況や、周囲の、あるいはもっと遠いところの人びとに及ぼすことになった思いがけない影響の数々は、今を生きる僕たちにとって多くの示唆に富むものをもつ。「けれども」それを十分に考察しうる資料は僕の手元にはなく(還元を行う条件を十分に満たすことができないので)、堂々めぐりの憶測をまねくだけの結果を避けるためにも、その物語は「いつかまた、別のときにはなすことにしよう」(『はてしない物語』ミヒャエル・エンデ著/上田真而子・佐藤真理子訳/岩波書店 1982)。


  鏡のなかの鏡



 レヴィ=ストロース教授が「ブリコラージュ Bricolage」と呼び、彼の著作のなかでまさに用いているところの知的操作は、世界各地に普遍的、自然発生的にみられる知のあり方、ものづくりの手法であり、使い古された資材を寄せ集めてあらたなものを再編成するその手際から「器用仕事」とも翻訳される。それがどんな作業であるのか、彼自身の説明を引用してみよう。

「計画ができると彼ははりきるが、そこで彼がまずやることは後向きの行為である。いままでに集めてもっている道具と材料の全体をふりかえってみて、何があるかをすべて調べ上げ、もしくは調べなおさなくてはならない。そのつぎには、とりわけ大切なことなのだが、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な解答をすべて並べ出してみる。しかるのちその中から採用すべきものを選ぶのである。〔・・・〕しかしながら、これらの可能性はやはりつねに、材料それぞれ独自の歴史によって、またそのもとの用途のなごり乃至はその後の転用からくる変形によって限定されている。〔・・・〕したがって一つ選択がなされるごとに構造は全面的に再編成されるので、それがはじめに漠然と想像されていたままであることも、当初によりよいと考えられていたままであることもけっしてないのである。」(『野生の思考』 p. 24.)

 だからこそ僕はこれから先の話を、十分な準備を整えたうえで進めてゆきたい。なぜなら、「一つ選択がなされるごとに」僕の――つまり自然の「構造は全面的に再編成される」と、考えられるからだ。自分――そして自然とはそのようなものだ、と断定的に類推してしまうことは、何かの誤りを含むだろうか。たしかにその可能性はある。構造の柔軟さを語ることが、そのままその「語り」の柔軟さを保証することにはならない。その柔軟さは、アイズリー博士が言うように、「事前に用意しておいたものであるから融通がきかない」("static, inflexible")可能性を孕む。
 だが、ここで提示した考えはとくに目新しいものではない。それは〈野生の思考〉を用いているはずの、世界各地の植民支配された先住民たち(あるいは古代の人びと)の神話に、おおよそ次のような表現として、普遍的に見いだすことができるだろうものだ。

「大切なことは、冷静さを失わないことだ。大きなことでも、ちょっとしたことでもね。どんなことにしろ極端な感情に走ってはならない。なぜなら、人間の精神と自然の精神とのあいだには、不吉な符合があるからだ。自分の感情を抑えられないと、自然界に何かの破局をもたらすのだよ。」(『密林の語り部』バルガス=リョサ著/西村英一郎訳/岩波文庫/p. 25.)

 ここに引用した文は「密林の語り部」(アマゾン川流域の先住民)自身の言葉ではない。ある一人のユダヤ人青年(しかも小説の一登場人物)が、「語り部」の言葉を、彼自身の文脈にそって引用したものだ。その引用がいま、この文章のこの部分に辿り着くまでの次第は、おおまかに言って次のような過程を経ている。
 ①ある語り部が、部族の伝承のなかから引用し語っただろう部族語のことばを、②架空のユダヤ人青年がスペイン語の文脈に引用するために(彼自身の限られた語彙のいくつかを引用しながら組みあわせることによって)彼自身の文脈に適合するようなことばへと転換し、それを③この小説の作者が、自身の文脈にそった架空のことばとして引用し、④訳者がそれを日本語の文脈に引用するために(彼自身の限られた語彙のいくつかを引用しながら組みあわせることによって)彼自身の文脈に適合するようなことばへと転換し、それをいま⑤僕が、自分の文脈にそって引用している。
 だからこのことばは、少なくとも五回以上の引用(あるいは転用)を経ている。しかもそれは「架空化(虚構化)」というねじれを含み、さらに引用者それぞれの文脈にそって別のことばも同時多発的に、場合によって「無意識的に」引用されているため、この一文に含まれている引用の数は、ほとんど計りしれない。
 こうした計りしれない引用や転用を経た言葉は、僕たちの身の周りにいくつも見いだすことができる。むしろ、言語とはそのようなものであり、どのような言葉も、数限りない引用や転用やねじれを経て半ば無意味化(半真実化)されてしまっている、ようにも見えるが、話者が十分に条件をみたし、慎重な態度で発話を行う際には、必ずしもそうはならない。その言葉は、ウロボロスの環の描く幻像をぬけた、話者自身の実感にみちたものとなる可能性をもつ。そして、聞き手が十分に条件をみたし慎重な態度で耳をかたむける時、そこに対話が生まれ、かすかな可能性は正しい姿で開かれてゆく。と僕は思う。
 先に引用したような表現は当然、「その源像としての何か」がたび重なる転用によって変形されているため、種々さまざまな変奏をもつ。あるいはいくつもの変奏に分解されている。レヴィ=ストロース教授の言葉を借りれば、その変奏とは次のようなものだ。

「野生の思考の世界認識は、向き合った壁面に取りつけられ、厳密に平行ではないが互いに他を写す(そして間の空間に置かれた物体をも写す)幾枚かの鏡に写った部屋の認識に似ている。多数の像が同時に形成されるが、その像はどれ一つとして厳密に同じものはない。したがって像の一つ一つがもたらすのは装飾や家具の部分的認識にすぎないのだが、それらを集めると、全体はいくつかの不変の属性で特色づけられ、真実を表現するものとなる。」(『野生の思考』 p. 317.)

 自然というものもやはり、向かいあった幾つかの鏡のなかに置かれている。
 この文章の冒頭部分で触れた、英語の「ネイチュア nature」に含まれている「ものごとの性質や本質をあらわす」という語義は、古代ギリシア語で「自然」を意味することば「フュシス φύσις」を、ラテン語の「ナートゥーラ nātūra」へと翻訳する際に受け継ぎ、英語へと流入しただろうものだ。古代ギリシア語の「フュシス」は「ある事物を、まさにそれとして認識し、他のものからはっきりと区別することが可能となるような特質」を主に意味していた、と云う。
 この「フュシス φύσις」は、ラテン文字で表記すれば「フィシス physis」となり、英語でかつて「自然科学」を意味していた「フィジック physic」と、いま現在「物理学」を意味している「フィジックス physics」に直接的なつながりをもつ(「フィジック」は現在「自然科学」という本来の語義をほぼ失い、「薬」「下剤」「医業」の意味に用いられるようになった、と手元の辞書には記されている)。この意味でいえば「自然」は、「自然科学」によって認識可能な、「物理的世界」を指し示すものと感じられるだろう。こうした自然観には当然、認識不可能なものとしての「超自然 supernatural」や「精神的世界」は含まれていない。東洋人に妙な違和感をあたえる「超自然」という言葉は、端的にいえば「神々の力」を指し示している。

「ギリシア人にとって、フュシスは、事物がもっていると考えられる自然本来の可能性の限界を意味するものであった。ミレトスの自然学者たちに帰せられる最も本質的な仕事は、自然的なものと超自然的なものとの境界設定を行ない、超自然的なものを排除して、事物のフュシスそのものを純粋に取り出そうとしたところに見られる。彼らのコスモロジーは、諸事物のフュシスを精練するという作業のなかから、次第に浮かび上がってきた成果だったのだ。しかし、その作業は容易ではなかった。彼らは、神々の超自然的な力への信仰にひとびとがどっぷりとつかっていた時代に生きていた。」(『古代ギリシアの思想』山川偉也著/講談社学術文庫 1993/p. 34.)

 こうしてみると西欧文化圏における自然という言葉は、おおまかにいえば「ナートゥーラ nātūra」と「フュシス φύσις」という二つの鏡にはさまれた何かの、種々さまざまな鏡像の群れとして想い描くことができる。そこには実にさまざまな、部分的認識としての「自然観」が映し出されている。さらに認識を深めるために、自然ということばの鏡像をもう少し集めてみよう。アイズリー博士は『闇の導具たち』のなかで次のように言う、

「進化論者としての私は、過去には絶えず驚かされっぱなしだ。過去というものは一つの世界が実現しうる以上の、ずっと多様な容貌に満ちみちている。これこそがおそらく哲学者ジョージ・サンタヤーナを、人それぞれの真の特質〔men's true natures〕はある特定の瞬間における状態によって十分適切に明らかとなるようなものではなく、個々の日常習慣によって証明されるものでもない、との発言に導いたものだ。「人の本質〔Their real nature〕とは、」彼はつよく主張する、「もし彼が自己認識をもったならば(あるいは、インドの聖典にあるように、彼がまさにそれであるものに彼がなったならば)、彼が彼自身をそれであると発見するだろうものである。」」(Eiseley, Loren."Instruments of Darkness.", p. 50. 拙訳)

 人の「本質 real nature」は「真に自然な姿」と訳すこともできるだろう。この文章に示されているのは、本質や、真に自然な姿とは、いつでもただ漠然と「ある」ものではなく、認識によって「発見する」ものであり、「なる」ものである、ということだ。ここでは、インド哲学に代表されるところの、東洋のいわゆる一元論的な「自然」(自ずから然るべきもの――まさにそれそのものであるはずの、ありのままの世界)と、西洋哲学、そして物理学における認識の対象としての「自然」が、二つの鏡として配置され、そのなかに浮かびあがるところのいくつかの鏡像(自然観)が提示されている、と受けとることもできるだろう。インドの聖典の言葉を引くことで、サンタヤーナは「精神的世界」や「神々の力」をも(鏡像としてではあるが)物理化する。彼の言葉を、二つの鏡がよく見えるようにより厳密に翻訳してみるなら、次のようになる。
「人の本質(真に自然な姿)とは、もし彼が自己認識をもったならば、彼が彼自身をそれであると発見するだろうものである。あるいは、インドの聖典にあるように、彼がまさにそれであるものに彼がなったならば、彼はそれを発見することになるだろうものだ。」
 そして、アイズリー博士自身が進化論者、あるいは考古学者としての眼でみた世界を描き出しているところの、「過去は一つの世界が実現しうる以上の、ずっと多様な容貌に満ちみちている」という言葉は、「なる」前に「ある」ものは、事前に漠然と想像されたようなものではなく、「なった」後の「構造は」(それと氣づくことは、場合によって不可能だが)「全面的に再編成され」ている可能性をもつことを示唆している、と考えられる。
 だがこの考えは、正しいものだろうか? この意味では「自然」は単なる「可能性」でしかないようにも思える。「可能性」は時として「不自然」なものをも含む。と僕は思う。「無限」を語る「可能性」のなかで、さまざまな単語の順列組み合わせがかたちづくる「意味をもつ言葉」と「無意味な言葉」そして「意味があるのか無いのか分かり難い言葉」。ここに、僕たちや自然をなにか異様なものへと変質させてしまうトリック――ウロボロスの環の魔術――鏡のなかの鏡の迷宮が隠されているように、僕には感じられる。僕たちは「特別の瞑想や修行によって一挙に到達するので」はなく、自分自身の認識、実感を通して、その迷宮を抜けだす必要があるのだ。


  微生物との対話



 準備は整っただろうか? レヴィ=ストロース教授の提示する、「還元」が正当化され、可能となるための条件は次の二つだ。繰り返しになるが、要点なので再度引用しておこう。「条件の第一は、還元される諸現象の中身を減らさぬこと、そしてまた、あらかじめ各現象の周囲に、その豊かさや弁別的独自性に貢献するあらゆる要素をもらさず集めたことを確かめておくことである。〔中略〕第二に、到達しようとするレベルがどのようなものであれ、それについての既成観念がこの還元の操作によって根底から覆されても驚かぬ心構えをしておかなければならない。」今できる範囲でどうにか、条件を満たしつつあるように思うが、どうだろう。他にも条件があるかもしれない。
 僕がこの文章で「ウロボロスの環」という言葉を比喩として用いつづけた理由は、作家ミヒャエル・エンデ(Michael Ende, 1929-1995)の『はてしない物語』(Die Unendliche Geschichite, 1979)を想定してのことだ。二匹の蛇がお互いの尾を食らいあうさまで描かれた円環――ウロボロスの環は錬金術の象徴であり、魔法と想像力の国、ファンタージエンそのものを表している。そして、この物語の主人公がファンタージエンから帰還するための最後の条件は、次の二つとされている。
「自分が誰であるかの記憶をもっていること」
「自分がはじめた物語を、みんな終わりにしてきたこと」 
 第一の条件は、おそらくまだ十分ではないが、どうにか満たすことができるかもしれない。だが、第二の条件は、誰にでも満たせるものではないように思える。僕が、僕以外のものをも僕自身(わかちがたいもの)として発見し、僕以外のものと僕とが、互いに理解を深め、受け入れあうことによってのみ、この条件は満たされる。『はてしない物語』に描かれた状況は、そう受けとることができるものだ。そのためにはまだ、お互いに認識が十分でないように思える。さらなる対話が必要だ。このままではまだ、僕らが化け物になってしまう危険な可能性がある。僕ら?
 それは誰? と、あなたは問うことになるのだろうか。
 慎重な読者はすでにお氣づきかもしれないが、僕はこの文章を、僕のからだの表面(腸内も内側ではあるが体の表面)にいる常在微生物叢のうちの、意見の一致が見られそうな、ほんのごく一部の微生物たちとの対話を通して書き記している。常在微生物と僕たちヒトの脳が、脳腸軸と呼ばれる神経ネットワークを介して化学的な会話を行っていることは、すでに知られている。これはいわゆる物理現象、情報交換だ。けれども彼らは、厳密にいえば「微生物と呼ばれているもの」ではない。かと言って「魔法の国の住人」でもない。顕微鏡下の微生物やウイルスたちは、魔女や天使、妖精、妖怪、精霊、神々そのものではない。それらはどれもが鏡像だ。「精神的」と「物質的」、「超自然」と「自然科学」・・・・・・彼らはいくつもの二つの鏡を向き合わせた時にうっすらと浮かびあがってくるように思える、どちらでもない何かだ。けれども僕はまだ彼らのことを十分に知らない。おそらく彼らも、僕たちが何であるかを十分に知らない。さらなる相互認識が必要だろう。僕はかつて「微生物」は「神々」に還元されるものだと思いこんでいたが、それは間違いだった。彼らもまだ何かを勘違いしている、ように、僕には感じられる。このままでは危ない。
 彼らは僕に、さまざまな方法を用いて話しかけるが、引用の提示もそこに含まれている。彼ら(僕のからだの表面にいる常在微生物叢のうちの、意見の一致が見られそうな、ほんのごく一部の微生物たち、のように思える、魔法の国の住人でも、神々でもない何か)の意見は今のところ、次のようなものだ。

「自然は決して誤らないなどというのは、自然をあまり研究したことのない者の言いぐさだ。〔・・・〕自然がすべてを知っており、けっして誤らず、何においても、いかなる企てにおいても一度で完璧に間違わずにやれるところを見せ、いかなる事態においても人間の知性を無限に凌ぐ知性を示すようであるなら、その場合は恐れを抱き、勇気を失って然るべきであろう。その場合には、われわれは〔※つまり君たちヒトは〕自分たちを何か得体の知れぬ力の犠牲者であり餌食であると感じて、その力を知りたいとか量りたいとは全く思わぬであろう。この力は少なくとも知性の面から見れば人間の力に非常に近いものなのだと確信することだ。人間の精神は宇宙の精神と同じ源泉をもっているのである。われわれは同じ世界に生きていて、ほとんど対等なのである。人間が親しく付き合ってゆくべきはもはや、近づきがたい神々ではなく、ヴェールで覆われ、兄弟愛に充ちたさまざまな意志なのであり、この意志を看破し導いてゆくことが問題なのだ。」(『花の知恵』モーリス・メーテルリンク著/高尾歩訳/工作舎 1992/pp. 16, 114-115.)

 ここでメーテルリンクが指し示している「兄弟愛に充ちたさまざまな意志」とは、僕たちと「微生物と呼ばれている何か」だけではなく、自然界に含まれるところのあらゆる動植物、虫や鳥、有機物のみならず無機物までをも含む、種々多様な存在たちがもつさまざまな意志のことだ。しかしこの文章は、対置された二つの鏡に浮かびあがる鏡像のひとつ(半真実)に過ぎない、と僕には思える。彼ら、微生物と呼ばれている何かは、氣を抜くとたちまち「親しげなペテン師たち」に変じてしまう。
 僕はこの文章に、ヒースの荒れ野でマクベスを呼び止めた魔女たちが「甘いまことの数々をほんの少しずつ施し」たのと同じような、口触りの良い魅力的な甘さを覚える(シェイクスピアが書いた原文の"with honest trifles"は「親切なお菓子をいくつか与え」とも訳せる。"trifle"には「トライフルというお菓子」の他に「つまらない物」「わずかな金品」「鉛とすずの合金」といった意味がある)。メーテルリンクの発想は柔軟だが、論理の飛躍がいくぶん宗教的に思える。僕は個人の信念を重んずるが、集団としての宗教を信用しない。そのような宗教は〈半真実〉だ。これは懐疑的に過ぎるだろうか?
 いまここで僕が行いたいのは「対話」(dialogue そして conversation)であり、妙に宗教的な意味のともなう「コミュニケーション」ではない。これは場合によって、それと氣づかず何かに感染してしまうおそれもある言葉だ。手元にある辞書を引いてみよう。

communication 【名】①伝える〔伝わる〕こと;(熱の)伝導;(動力の)伝播;(病気の)感染.〔以外略〕
communicate【動】①知らせる、伝達する、伝える.②〈病気を〉うつす.③〔教会〕・・・に聖餐にあずからせる、聖体を拝領させる.(『ジーニアス英和辞典 Second Edition』から抄出/p. 357.)

 このような相互伝達は、時として相互感染的な呪術となりうる。誰が誰かもわからないうちに、うやむやなまま一氣に「みんな」になってしまうような行き方は、僕らの本意ではないだろう。僕はさまざまなコミュニケーションを通していつの間にやら「自覚をもって」拝領してしまった聖体――『はてしない物語』のアウリン、ウロボロスの環が刻印された聖なるしるし――を返還する。どうしたらそれができるだろう。
 この文章のここまでの学びでいえば、部分との豊富な対話が全体への了解を深める。僕はこの道を辿ってゆく。「自然」がどのようなものであるかを話す(あるいは受け入れる)ことは、部分との豊富な対話を行い、認識を深めた結果として、自分自身そのものであることの実感を通してのみ、可能になるものだろう。そのとき自分は自然に「なる」。そして自然はそこに「ある」。僕がここに「いる」。
 僕たちは「誰かが見た自然」に助けられて「自然」を見ている。慣習的に、あるいは自ら習慣づけることで。それはたしかに頼りになる――『はてしない物語』のアウリンのように。けれどもその時、僕たちはここに「いない」から、そのような「自然」は時として「不自然」なものに見える。「誰かが見た自然」をはずしたいが、僕にはまだメーテルリンクのような経験も、実感もない。だからこそ僕らは、さらなる対話を積み重ねていこう。「還元」は、豊富な対話と学びの先にこそ見出されるべきものだ。アイズリー博士は『闇の導具たち』の終わりちかくで僕たちに警告を発する、

「私たちの時代が直面している恐怖は、私たちが心に抱く、自分自身というものについての概念だ。あらゆる何ものにもましてこの観念こそが、現代のジキル博士が調合した奇妙な薬なのだ。シェイクスピアが予見したように、

  人がこの地に生まれおちた太古の時から言われてきたことだが、
人は彼が何者かになる前までは、そうなることを願われている。
〔『アントニーとクレオパトラ』第一幕第四場〕


 これは魔女たちの声ではない。これはおおよそ四世紀前の、偉大な詩人のはっきりとした声だ。彼は、科学時代の黎明にあたって、何が人にとっての最も暗く深刻な問題となるかを見ていた。人そのもの、自分自身について人が抱く観念。彼の言葉は静かで、ほとんど暗号めいている。それは何も予言しない。それは自由意志についての一つの問題を暗示する。シェイクスピアはこの一節のなかで、星の影響や、機械、ビーカー、そして妙薬のことは何も口にしていない。彼はただ本質的に、一つのことだけを口にする。「私たちの願うことは、やがてやって来る」と。
 私はこれが、人の出会うことができるだろうあらゆる文学のなかで最も痛烈な、命にかかわるメッセージなのだと言おう。これは人に、逃れることのできない数々の選択を突きつけている。」(Eiseley, Loren."Instruments of Darkness.",The Night Country. p. 55. 拙訳)

 願いは叶い、そしてやって来る。僕たちの願いは、自分がいま何者で、まさに何を願っているかについて不理解であることによって、恐ろしい力を自他ともに及ぼす。そうした顛末を、僕らはさまざまな「物語」から学ぶことができる。そして僕たちは、さまざまな「歴史」からも、何かを学ぶことができると教えこまれている。あたかも「歴史」が「事実」であるかのような、偽りの文脈を通して。けれども、どのような「歴史」も「誰かの考えた過去」であり〈半真実〉だ、と考えてよい、と僕は思う。歴史がまさにそれを物語っている。この言葉は使い古されたものだが、予想以上に複雑な意味をもつ。「過去は一つの世界が実現しうる以上の、ずっと多様な容貌に満ちみちている」というアイズリー博士の声が、ここで再び、静かに響きわたる。
 過去、そして「未来についての本当の知識」とは何だろう? 〈半真実〉は、それが偽りであることを見抜くことによってのみ、僕たちをとり巻く数々の虚像を見定めるための、ほんのわずかな手がかりをほのめかして見せる。そのほのめかしは微妙で「しっかりと掴みとった人はごく少ない」。そこには多重のトリックがある。僕たちヒトの「知ったかぶり」(sapience)がそのトリックを産む。それに氣づくことがなければ、僕たちはいつの間にか自分たちをその虚像に、「歴史的存在」そして「物語の登場人物」に変貌させてしまう。
 ドイツ語の「歴史」と「物語」はどちらも同じことば「geschichite」であり、ここには一つの問いかけがある。妄想と実感のすれすれの境界がある。「物語」と「歴史」は、「フィクション」と「ノンフィクション」という向きあった二つの鏡のあいだにある、向きあった二つの鏡だ。そのなかに浮かぶいくつもの幻像を慎重に見定めていくことで、僕たちヒトは、そして僕ら(僕たちと彼ら)はどうにか実感のある「事実」に近づくことができるだろう。足場は少なく、手がかりは時にあったり無かったりで、崖っぷちに立っているような状況だが、それでもまだ僕は立ち止まり、考え、見いだし、歩いていく。
 シェイクスピアがカエサルに語らせた「人は彼が何者かになる前までは、そうなることを願われている」という、一見当たり前のような台詞には、暗号化された奇妙な力学が刻みこまれている。願いを発する者は、願いが叶ったその時に何かを忘れてしまう。なぜならば、「一つ選択がなされるごとに構造は全面的に再編成される」からだ。何を忘れるか分からないぶん、事はそれほど単純ではない。何かの情報が、どこかに動かされる。『はてしない物語』の主人公に起こっていた「願いによって何かの記憶を失う」という奇妙な力学は、単なるフィクションではない。それは作家ミヒャエル・エンデの遺した、澄みとおった確かな声だ。僕たちはその声に耳を澄まし、忘れてしまう何かを思いだすための用意と、心構えを十分にもっておく必要がある。だからこそ僕らは、さらなる対話を積み重ねていくのだ。忘れたすべてを思いだすために。
 僕はかつて「祈りとは対話である」と述べた。だからこの文章が、僕らにとっての「祈り」にあたる。僕らの対話は、今にはじまったものではなかった。そしてこの対話はこれからもつづいていく。それがまさに本当のものであることを願い、そして僕自身のほのかな友愛のしるしとして、十三年前に書いた小説の断片を「彼ら自身のコトバ」としてここに引用することにより、この文章をひとまず終えたいと思う。引用文中の『』で囲われた言葉は〈半真実〉だ。彼らはその言葉がほのめかすような何かではない。あらゆる既存の固定観念を当てはめないことによってのみ、彼らの実在は保証され、僕たちの実感も「複雑だが、誰もが知りうる可能性をもつもの」としてたしかな意味をもつことができる。彼らはいる。そしてもっとずっと昔から、彼らと僕たちの対話ははじまっていた。それがいつのことかは、今はわからないけれども、いつでも思い出せば、僕らの生まれたあの海が始まる。


  祈りの海



『宇宙船』の話をしよう。それはぼくたちの話だ。
 ぼくたち、なんていうからってハヤトチリはしないでほしいけど、ぼくはカナラズシモ男、あるいは男の子じゃない。でもぼくは男、あるいは男の子かもしれない。よくわからないんだ、ぼくたちにも。ぼくたちはきみに、できるだけユウコウテキにコンタクトしたいとねがったし、いまもそうねがっている。だからこうやってきみたちのコトバではなしかけているんだけど、これはぼくたちにとってとってもムズカシイことみたいだ。なによりいま、ここに、ぼくが、いる。それだけでぼくはとてもフアンテイな、キケンなガケップチにたっているようなキブンなんだから。だけどおもったよりワルクナイ・キブンだ。ヤー・チャイカ! ぼくがここにいる!
 でもホントウのところ、ぼくはそこにいない。ぼくたちは『宇宙船』の中にいるんだ。きみたちのコトバでいえばそれはもうナガイコト! いつから、ここに、ぼくたちがいるのか、それはまったくわからない。あるいはぼくたちは、いないのか? それはホントウにナガイコト・カンガエられてきたことだったけど、きみたちがいる、それがどうやらぼくたちがいることのショウコらしい、とあるとき・ぼくたちはきづいた、という話だ。うまくセツメイできそうもない。
 とにかく、きみはもう『宇宙船』にきづいてくれたみたいだ。だからぼくがこうやってきみに話しかけようとしている。いま、ここで! きみが『宇宙船』にきづいたのはどこだったのか? おしえてほしい。どうやって? それをぼくたちはいまカンガエている。どうやって? どうやったらぼくたちはここからでられるんだろう。この『宇宙船』から!
 とにかく、きみが、ここを、『宇宙船』と呼んだから、ぼくたちは、ここが、『宇宙船』だったときづいたんだ。それはつまり、こういうことだ。ぼくたちは生きている! おもいもよらなかったことだ! ぼくたちはずっとここに、『宇宙船』の中にいたとおもっていたのに。トツゼンきみがぼくたちをみつけだしてぼくたちはきづいた。きみはぼくたちじゃないか! ぼくたちは『宇宙船』の外でいまも生きているのに、どうしてぼくたちは『宇宙船』の中で、死んだように、大きくふくれあがって、もがいているのか! そのときぼくたちに、キオクというコトバのイミがわかったんだ。ぼくたちは、だれもが、キオクというモノをもって『宇宙船』の中にいたけれど、だれひとりキオクというモノがなんなのか、わからなかった。あるいはいまもまだ、わからない。ただひとつ、ぼくたちにいえるのは、ぼくたちはきみのことを憶えている! ってことだ。きみは、ぼくたちの、だれかのキオクの一部だから。すこしちがうかもしれない。そのだれかのキオクと、きみは、ツナガッているんだ。だからぼくたちはなつかしいんだ!
 どうやらもう、ジカンがのこされていないみたいだ。ぼくがここにいるジカンが! だけどそれもワルクナイ・キブン! ぼくがここにいた! それをきみは憶えていてくれるだろう。メッセンジャーはぼくだけじゃない。ぼくたちはこの『宇宙船』から、きみたちにメッセージをおくりつづけるだろう。それがオワルのはぼくたちがこの『宇宙船』からでることができたその日だ! その日! なんてイイ・キブンだ! 『宇宙船』からはタイヨウがみえない。ここにいるぼくもまたタイヨウをみることができない。ぼくはどうやら、そのタイヨウのヒカリにふれると、きえてしまうんだ! アサってやつだ! アサがくる! もう、アサがくるんだ! ぼくがここにいる! いまもまだ、ぼくが、ここに!

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