九月二〇日
タマゴタケと云う
蕈が生えているのを初めて見た。
白い卵の殻のような基部から伸びたつ黄色い軸と、鮮やかに
紅い笠とが特徴的なこの
蕈、一見毒々しいような
形ではあるが、たしかロシアでは森の妖精とも呼ばれ、一般に
頗る美味とされているものだ。けれども、いま自分が棲むこの山奥の集落の長老・神楽の申し子Eさんのご子息N氏の談によれば、食べてはみたけどさほど旨くはなかったとの
由。近在の人が口にしたのであれば恐らくは毒もない
筈、ならば自分も食べてみようか、みまいか、とくと
逡巡する間もなく、翌日様子を見に行った時には
蕈の姿は跡形も無く、奇麗さっぱり消え失せていた。山の獣はこれを好むらしい。
九月二二日
チャボホトトギスと云う名の植物がある。
ごく小ぶりで可憐な花にある
斑の、ホトトギスが胸や尾に帯びる模様と相似たるさまから付けられた草花の名前に、重ねてチャボと鳥の名を冠したこの山野草の一種が、家から下って標高
凡そ五百メートル程の、隣の集落のはずれにある小社の鳥居前にぽつぽつと黄色い花を咲かせていた。チャボとはその丈の低さを表す為の語である。当県固有の近縁種にキバナノホトトギス
之れ有りと云うが、地べたにはりつく咲き振りから
推してチャボの方かと思う。
自分がこの草花に
見えるのは二度目で、初めの出会いは遠く伊勢でのことだ。
二〇一九年の九月九日に、伊勢湾に面した
二見浦で禊ぎ祓い祝詞をあげ、伊勢神宮外宮、内宮、別宮と参拝。お伊勢参らば
朝熊をかけよ朝熊かけねば片参り、と唄われた伊勢音頭の文句にうながされて、翌一〇日は
徒歩で朝熊山の古道を登り金剛證寺を詣でた。伊勢神宮の鬼門を護るこの山は、今では禅宗だが中興の祖として弘法大師空海の偉跡を多く祀る、いくぶん不可思議な雰囲氣の寺である。
朝熊山は標高五五五メートルと低めの山で、現地の老人連はひょいひょいと、将に駈けるが如くの短時間で登り下りしていた。典型的な修験の霊地である。けれどもこの日、自分は午前七時半から午後四時半頃までの
凡そ九時間、だいぶん
暢然と時間をかけた登山で、古道に居ならぶ地蔵や菌類、粘菌、草花などの写真を撮りながらの参詣だったと記録してある。ほぼ山頂にあたる八大龍王社で般若心経を奏上、下山の際に選んだ細い山
径にチャボホトトギスの名と仔細の書かれた立て札があり、折良くその近くでこの小さな草花を眼にする機会を得た。
しかしてこの山奥の集落に伝わる神楽は、伊勢の流れを汲むものだとのEさんの言あり、その根拠は不明で話半分に受けとめてあったが、朝熊山とこの山の
植物相は相通ずる点が多く、神楽の型の直接的類縁の
如何は兎も角、この可憐な黄色い花はその縁故の暗示を有する幽かな
よすがであるようにも思う。山から山へ峯を
馳せ神楽を伝えた行者の、遥かな旅の軌跡が夢のように偲ばれもする。
自分の借りて棲むこの家の由来も一風不可思議なもので、延岡藩の鍵番であった
某が何かの
科で役目を追われ村に落ちのびたものだと云う。この家の元の持ち主の姓は椎葉であった筈だから、延岡藩の鍵番云々の話と今とをつなぐにはあまりにも余白が広い。江戸期の由緒書には貴種との血縁を記す偽文書も多く、その類いの話ともとれるだろうか。集落の人から聞き齧った言葉はどれも断片的で不明瞭な点が多いものの、一つに重ねあわせてみれば大略次のような話もある。
明治の以前以後とも定かならぬ過去に、集落のサエなる家にカクヤ
爺と申す
験者之れ有り、盲目の老
翁なれども三十三番すべての神楽を一身に修めて舞い、弘法大師を祀りて病苦平癒の法を
行せしと云う。サエはこの村の語彙で山の高所を意味し、一軒ぽつりと高所にあるこの家を集落ではサエと呼ぶ。カクヤ爺がいつの時代に生きた人であったか、誰に問うても確かな返事はない。神楽は家ごとに数番ずつ別れて相伝されてきたものであるため、実話ではなく神楽の始祖を語る伝説上の人物とも思うが、誰もがよく見知った風な親しげな口調で語るのだから、不思議な実在感のある
老爺だ。この家よりほんの少し登った所に
亀爺という人の住んだ亀爺屋敷もありきと聞くが今は何かを祀った痕跡の石を遺すばかりで、いつの時代の誰かとも知れない。
〔続きは推敲中です〕